賀茂村(読み)かもむら

日本歴史地名大系 「賀茂村」の解説

賀茂村
かもむら

中世の郷村で、賀茂庄ともよばれた。猪名いな川左岸で、地名は近世の加茂かも村に継承される。嘉禄元年(一二二五)九月一七日の関白家御教書案(久安寺文書)に「賀茂庄」とみえ、尼浄法は賀茂庄の領主であることを証明する院庁の下文を紛失し、浄法の所持する案文を謀書と称して他から侵略されたため、賀茂庄領主の正統性を関白家に訴え、同年承認された。同三年浄法は賀茂村畑二反を久安きゆうあん(現大阪府池田市)に寄進した(同年三月六日「尼浄法寄進状」同文書)。また弘安九年(一二八六)閏一二月三日の預所某年貢免除状写(満願寺文書)によれば、満願まんがん寺御経物田畠二反は賀茂村本領主である浄法尼が満願寺に寄進したもので、領家職の所当米は満願寺に奉免し、国・薗の所当米は負担するようにと命じている。貞和三年(一三四七)一二月一一日の関白二条良基御教書(多田神社文書)によれば、東北とうほく(跡地は現京都市上京区)山本やまもと庄の賀茂村散在名田(宗安名と号する)のうち多田院円珠の買得相伝地について、行田彦次郎の綺を停止して円珠の知行が認められている。


賀茂村
かもむら

[現在地名]世羅町賀茂

大田おおた(現芦田川)流域に展開する賀茂盆地を中心とした村。北は津口つくち(現美波羅川)上流の分水嶺を境に津口村・青水あおうず村と接し、東は大田川下流の重永しげなが村に接する。田一枚の高低差によって水は瀬戸内海と日本海に分れて流れるので、水の別みずのわかれという地名もある。賀茂盆地中央の河川敷からは弥生時代後期の遺跡が発見され、また条里制の遺構も検出される。

建武三年(一三三六)七月一八日の山内観西軍忠状写(山内首藤家文書)賀茂郷とある。賀茂郷には栗原・山内・長井の各氏が在地勢力として蟠踞していた。北部山地から突出た小丘陵上の浦壁山堀うらかべやまほり城を拠城とした栗原氏は、天正一九年(一五九一)頃の毛利氏八箇国御配置絵図(山口県文書館蔵)に知行高四七四石三斗二升七合とあり、慶長五年(一六〇〇)毛利氏に従って防長に去るまで居住、城の東側の市場(現字賀茂市)を自己の市場とし、西側の谷に菩提寺福田ふくでん寺を営んでいる。


賀茂村
かもむら

[現在地名]男鹿市戸賀加茂青砂とがかもあおさ 加茂かも

男鹿半島西部、戸賀湾の南約四キロの小さな湾に面し、青砂川を越えて南に青砂村が続く。東にそびえるしん山・ほん山が日本海へ断崖をなして落ち込む。集落は海浜のわずかな傾斜地にあり、冬期は北の塩戸しおど村からの道路も、南の門前もんぜん村からの道路も通行不能となるほど険しく、陸の孤島の存在であった。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「志まと村 かも村 黒崎村 富村 はま塩屋村 はま中村」として八四石八斗三升五合とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には戸賀の内加茂村・青沙村と記載され、高の表記がない。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に「賀茂村」当高二石二斗八升八合とある。


賀茂村
かもむら

面積:三九・六四平方キロ

伊豆半島西海岸中部に位置し、北は田方たがた土肥とい町、東は同郡天城湯あまぎゆしま町、南は西伊豆町に接し、北・東・南の三方を山で囲まれ、西側は駿河湾に面する。天城山系から流れる大久須おおくす川などの小河川を集める宇久須うぐす川はほぼ西流して駿河湾に注ぐ。大部分は山林で、平地は河川の下流にわずかに広がっているにすぎない。海岸に沿って南北に国道一三六号が走る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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