赤野村(読み)あかのむら

日本歴史地名大系 「赤野村」の解説

赤野村
あかのむら

[現在地名]安芸市赤野

八流やながれ村の西、西は和食わじき(現安芸郡芸西村)に接し、南に土佐湾を望む。海岸に沿う平野と平野の北側の台地に集落が広がり、赤野川が南流して海に注ぐ。海岸沿いに土佐街道(東街道)が通る。「古文叢」所収の応永三三年(一四二六)なかかわ村薬師堂の鰐口銘に「安芸郡和食庄赤野」とあり、和食庄に含まれた地であった。戦国時代には穴内あなない村の西境の八流坂から西、香美郡手結てい(現夜須町)までの赤野や和食・西分にしぶんうまうえ(現芸西村)などの各村が和食郷で、和食郷を支配した和食氏は天文年中(一五三二―五五)安芸氏に追われ、以後戦国時代末期までは安芸氏が領有した。

赤野村
あかのむら

[現在地名]落合町赤野

西原にしばら村の東、旭川の東側に位置し、東は下河内しもごうち村。南辺を西流する河内こうち川が当地で旭川に注ぎ、河内川沿いに備中へ通じる道が通る。弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)に赤野郷とみえ、厚紙一〇束を六人部光丸が進上している。正保郷帳では田高二五六石余・畑高一五〇石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によると村位は上、改出高七〇石余・開高三三石余。「作陽誌」では家数五三・人数三一一。津山藩森家断絶後の支配の変遷は下見しもみ村に同じ。同書によれば藤波乢は当地と北西田原たわら村との間にある険峻な坂道で、備前からこの峠を通って北上、大山往来に通じ湯原ゆばら(現湯原町)に向かう人々が利用した。

赤野村
あかのむら

[現在地名]挟間村赤野 赤野など

賀来かく川右岸に位置し、北西は東行とうぎよう村。府内・日田往還が当村を経て南東黒野くろの村に向かう。年月日未詳の阿南庄松富名半分新田畠実検帳案(大友文書)に「あかのゝ太郎四郎入道あと」とみえる。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高二二四石余、北方村組。東行村分を含んでいたと考えられ、正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば当村の本高一四九石余・出来高四斗余、田高六〇石余・畑高九〇石余。小松山あり、日損所と注記される。正保郷帳では阿南あなん庄に所属。高松たかまつ陣屋(現大分市)と日田代官所を結ぶ府内・日田往還が通るため、当村庄屋宅は幕府飛脚の宿泊所とされた。

赤野村
あかのむら

[現在地名]舞鶴市字赤野

舞鶴湾(東湾)の北方、大浦半島南端に位置し、たいら村の北にあたる。

延徳二年(一四九〇)河辺村半済方御年貢米銭納帳写(「西大浦村誌」所引)

<資料は省略されています>

とあり、彦左衛門・赤野弾正右衛門の名が記される。河辺村のなかでは最も貢租を負担していた豊かな村であったようである。

江戸時代に入り、慶長検地郷村帳に高一五〇・一六石「赤野村」とみえ、土目録でも同高で、内訳は田方一三五石余、畑方一五石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報