とくに高さや階数の基準はないが,日本では高さが31mを超える建築物を高層建築と称し,100mを超えると超高層建築と呼んでいるのが一般的である。また外国,とくにアメリカでは,その呼び方を1930年代にニューヨークで建設されたものをスカイスクレーパーskyscraper(摩天楼)とし,現代のタワーtower,トールビルtall buildingとは区別して用いているようである。
19世紀の後半から始まる超高層建築の歴史は,それを可能にしたさまざまな材料や技術,さらにはその時代を反映する表現や形態の点から次の五つの時代に区分することができる。すなわち,第1期(1879-1906。シカゴ派による高層建築の誕生期),第2期(1907-31。ニューヨークにおけるスカイスクレーパーの全盛時代),第3期(1932-65。国際様式による近代超高層建築の時代),第4期(1965-74。現代超高層建築の成熟期),第5期(1975-。アメリカにおけるポストモダニズムと東南アジアの超高層建築ブーム)である。
W.L.B.ジェニーやL.H.サリバンらの建築構造技術者や建築家らは,在来工法であった組積造の建築に代わり,当時開発されたばかりのベッセマー鋼と鋳鉄を柱やはりといった構造部材として採用した,〈シカゴ構造Chicago Construction〉と呼ばれる高層建築をシカゴの町に次々と建設していった。それらは当時実用段階に入り始めていた電動式エレベーターや水圧エレベーターを備えていたため,従来4~5階建てであったシカゴの町のスカイラインを一新した。また組積造では不可能であった外壁への大きな開口部が鉄骨の骨組構造によって可能となり,十分な採光と通風の得られる〈シカゴ窓Chicago Window〉と呼ばれる大型ガラスを採用した窓は,その形態上の大きな特徴でもあった。そして鉄道の開通に伴う商業・経済活動の発展とともに,シカゴ建築は業務用賃貸ビルとして数多く建設された。しかし,やがて商業の中心が東部のニューヨークに移るに従い,シカゴ派の目ざす純粋技術の表現形式は,しだいに古典的手法による折衷主義にとってかわられていった。
1890年代の終りに,それまでの水圧式高速エレベーターに代わり,現在の制御方式と同じ,ワードレオナード方式によるエレベーターが開発され,続いて高速走行に適したギヤレスエレベーターの生産が1900年代の初めに開始されると,エレベーターの速度と安全性は飛躍的に向上した。その結果,ニューヨークでは20~30階建ての超高層建築が建設されるようになり,さらに,06年,H形鋼や広幅の鉄骨ばりが生産されると,40~50階とさらに階数を増していった。そして13年には商業の大聖堂と呼ばれるゴシック様式のウールワース・ビル(57階)が完成し,商業古典主義を代表する超高層建築となったのである。一方,20年代に入ると,フォードに代表される自動車産業をはじめとする各種産業が,第1次世界大戦後の好景気とあいまって興隆し,これを背景にニューヨークの町は土地投機の対象となり,土地価格を高騰させる結果となった。このことは,土地の高度有効利用を可能にする超高層建築の出現を促すことになったが,一方,ニューヨーク市は,ゾーニング条令によって無秩序な都市環境の開発を規制しようとしており,超高層建築の形態は,条令の斜線制限により,上階にいけばいくほど,ますます尖塔化せざるをえないという結果になっていった。また,企業の経済的行為の象徴として,超高層建築はまさにかっこうの対象であり,高さ競争とともにその象徴としての形態をますますゴシック様式に求めるようになっていったのもこの時代の特色であった。22年,シカゴ・トリビューン社の本社屋競技設計当選案をはじめとして,自動車産業の象徴としてのクライスラー・ビル(1930。77階)やエンパイア・ステート・ビル(1931。102階)はこの時代を象徴するスカイスクレーパーであり,この表現形式は29年,ニューヨーク株式市場の大暴落に始まる大恐慌まで続いた。
こうした状況の中,ゴシック様式にその表現方法を求める商業古典主義によらないまったく新しい形態の超高層建築が誕生していた。RCAビル(1933,ニューヨーク。70階),PSFCビル(1932,フィラデルフィア。32階)はスラブタイプと呼ばれる版状の形態をしており,従来のスカイスクレーパーとは明らかに異なり,当時ヨーロッパで盛んになり始めていたインターナショナル・スタイルによる表現方法であった。しかもRCAビルはその形態のみならず,その平面計画にもセンターコアの概念に基づく設計がなされていた。これはエレベーターや階段,便所といったサービス空間を,基準階平面の中央1ヵ所に集約し,その周囲に一定の奥行き寸法をもつ無柱の執務空間を配置する手法である。そしてこのコアは,建物の高さが増すに従って増加する風の水平力に対抗するシェアウォール(せん断壁)を,その中に効率よく配置できるという点で,構造計画においても有効な手法であった。経済の発展とともに,企業においてもそれまでの小規模の経営形態から,業務の拡大に伴う組織変更や規模拡張といった傾向をとるのが一般的となり,こうした企業や組織の内容条件の変化に対応できるセンターコア形式の平面計画は,その後アメリカにおける超高層事務所建築の原型となって今日に至っている(コア構造)。
一方,自動車の大量生産に呼応して,1915年には大型磨き板ガラスの製作が可能となり,30年代には蛍光灯の開発,白熱灯の生産,さらには近代空調設備の発達などにより,自然環境に左右されないで人工的に執務空間の環境を制御することが技術的に可能になっていた。このような背景のもとで,第2次世界大戦後の48年,アメリカ北部のポートランドに,アルミ材と密閉式ガラス窓による外装のエクイタ・ビルが完成した。アルミやステンレスといった材料は,クライスラー・ビルやエンパイア・ステート・ビルに,主として外装用装飾材として採用されていたが,本格的カーテンウォール素材として採用されたのは,この建物が初めてであった。そしてこれ以降,インターナショナルスタイルと呼ばれる超高層建築の一つの表現方法として,カーテンウォールはその主要な位置を占めるようになっていくのである。52年の国連ビルをはじめとして,SOM(ソム)(スキッドモア=オーイングスアンドメリル建築事務所)設計による全面ガラスのレバー・ハウス(ニューヨーク),ミース・ファン・デル・ローエによるレーク・ショア・ドライブ・アパートなどは,インターナショナル・スタイルの始まりであった。
SOMは,これ以降,アメリカにおけるユニバーサルな執務空間をもつ超高層事務所建築の設計分野で,リード役を務める大型設計事務所として活躍していくことになる。1950年代の後半になると,アメリカのみならず,ヨーロッパにおいてもテッセンハウス(デュッセルドルフ,25階),ピレリー・ビル(ミラノ,31階)といったヨーロッパ独自の構造形式と計画概念に基づく超高層建築が誕生する。また事務所建築のみならず,シカゴではレークポイント・タワーと呼ばれる70階建ての超高層住宅が68年に完成,77年には,ルネサンス-1と呼ばれる73階建てのホテルがデトロイトに完成し,その用途も広範囲に広がっていった。
1960年代後半に入ると,超高層建築は,その用途構成や構造形式,表現方法などにおいて内容の多様化時代をむかえることになる。すなわち,用途においてはそれまでの単一機能から,いくつかの異なった用途を組み合わせた複合建築に,構法的には鉄骨構造だけでなく,鉄筋コンクリート構造までも採用され,構造形式としては,水平力の大部分をコアに負担させる考え方から,外周部の柱やブレース(斜材)にも負担させるベアリングウォール(耐力壁)形式や,水平力による建物全体の曲げ変形に対抗する各種のチューブ構造が可能となってきた。その結果,これらさまざまな構造形式を建物形態の表現手段として用いた超高層建築が登場した。
CBSビル(1965,ニューヨーク。38階)は鉄筋コンクリート造によるベアリングウォール構造であり,その外周柱は花コウ岩をはったものとなっている。またシカゴのジョン・ハンコック・センター(1968。100階)は,外装にブレースを露出させ,スカイロビーによるエレベーターシステムを備えた住宅,事務所などの複合超高層建築である。そして,1972年にはかつてのエンパイア・ステート・ビルの高さを初めて超える110階建てのワールド・トレード・センター・ビルの2本のタワーがニューヨークに現れ(2001年9月11日テロ攻撃により崩壊),74年には同じ階数の外殻チューブ構造によるシアーズ・タワーがシカゴに完成し,第2の高さ競争のピークをむかえることになった。一方,この間,シカゴのタイム・ライフ・ビル(1970。30階),ボストンのジョン・ハンコック・タワー(1973。60階)など,周囲の環境との調和,外気の空調負荷の低減のためのハーフミラーガラス(熱線反射ガラス)製カーテンウォールを採用した超高層建築が登場し,超高層建築に新たな表現手段を与えることになった。
第2次世界大戦後の超高層建築の多くは,四角い箱とガラスのカーテンウォールによって表現され,都市のスカイラインを構成してきた。このような中にあって,アメリカのP.C.ジョンソンとJ.バーギーは,1973年,IDSセンターをミネアポリスに,76年にペンジイル・プレイスをヒューストンに完成させ,さらに78年,AT & T本社ビル(ニューヨーク)の計画を発表することによって,ポストモダニズムのデザインの先駆けとなった。これら一連の超高層建築は,林立する超高層群の中で,その存在を誇示するかのように平面形を幾何学的に処理し,頂部,胴,基盤の各部の表現方法の基調を1930年代のスカイスクレーパーに求めており,そしてこれらの表現方法を現代の素材と,高度に発達したコンピューターの構造解析により具現化させたものであった。
一方,こうしたアメリカにおける超高層建築のデザイン的変化とは別に,日本をはじめとする東南アジア諸国にも,1970年代後半より急激な勢いで超高層建築の建設が始まっていた。とくに,ホンコンやシンガポールのように国土が狭く,交通の要所で人口の集中した経済の発展しつつある都市では,土地の高度利用の目的のため,事務所,ホテル,住宅などの多くの施設が高層化されてきている。
地震国である日本にとって,超高層建築が成立するためには,地震に対して建物が安全であるための理論的研究が必要であった。1900年代の初め,佐野利器,内田祥三,内藤多仲らによって始められた鉄骨鉄筋コンクリートの骨組みに,鉄筋コンクリートの耐震壁を配置するという耐震構造の研究は,1923年の関東大震災によって初めてその有効性が実証された。翌24年には,市街地建築物法の改正が行われ,地震時に建物に加わる地震力としての水平震度の規定が初めて設けられた。そして,日本における耐震理論として,地震のエネルギーを建物全体として剛に受けとめる剛構造の考え方が,地震の科学的特性が十分に解明されえなかった状況の中で主流となっていった。しかし,40年,52年,アメリカにおいて,強い地震の記録に成功したことを機に,日本でも建物に入力された地震波を記録する強震計の開発が行われ,地震波記録を目的として,52年から強震計の全国配置が実施され始めた。59年,東京駅改造計画が発表されたのを契機に,超高層建築の可能性についての技術的研究が行われるようになり,60年のアナログ型コンピューターの登場によって,建物に対する地震波の影響について検討する応答解析が可能となってきた。その結果,固有周期の長い柔に接合された建物ほど,建物に入力される地震力が小さいことがわかり,こうした動的解析の結果,日本でもねばり強い高張力鋼を採用したじん性に富む柔構造であれば,超高層建築も地震に対して安全であるという耐震理論の確立がなされた。一方,急速な経済成長をむかえ,それに対応すべき都市環境にあって,当時の建物の絶対高さの制限の31mそのものが時代の要請に合わなくなってきていた。そのため63年,容積地区制の新設とともに,絶対高さの制限が撤廃され,翌年には,高層建築物の構造的安全性を評定する構造評定委員会が設置され,合わせて防災関係法規の改正も行われた。法的整備が整う中で,1961年には大型H形鋼の国内生産が開始され,また高速エレベーターの開発も実用段階に入っていた。このような背景のもと,68年,日本最初の超高層建築である霞が関ビル(36階,147m)が完成,これ以降,京王プラザホテル(1971。47階)をはじめ,74年までに新宿住友ビル(53階),新宿三井ビル(55階)が新宿副都心に建設された。また過密化しつつある都市の再構成の手段として,東京の池袋にはサンシャイン60(1978。60階)が完成,内幸町には日比谷シティーと呼ばれる複数の超高層建築による巨大開発が行われるようになった。一方,住宅建築においても,都心の工場跡地などの再開発として,超高層住宅の建設が民間や公社,公団などにより行われている。
超高層建築にとって,地震や風によって建物に作用する水平力の処理は,耐震設計上重要な要素である。これらの水平力によって,超高層建築は建物全体にせん断変形や全体曲げ変形を生じ,柱やはりおよびその接合部分には複雑な応力が生ずる。こうした影響をコンピューターを用いて動的に解析し,構造上の安全性を確かめることが,超高層建築の構造計画の基本である。またこうした変形により,外壁や内装材などに脱落や損傷が生じないよう,これらの二次部材を主要構造部に直接剛に取り付けない接合方法が必要になってくる。一方,地震の影響によって生ずる建物固有の振動(固有振動)に対しては,柱やはりといったラーメン架構のほか,コアや外周部分に耐震壁やブレース材などを配置することによって,居住者に不快感を与えないよう適度な剛性を保持した架構を構成している。このような耐震理論に基づく構造計画も,霞が関ビル当時には単純な架構形式でしか解析できなかったが,現在ではコンピューターの発達とともに,立体的な動的解析が可能となり,より合理的で安全性の高い耐震設計が可能となってきている。一方,アメリカにおいては,日本と異なり,地震よりも風による水平力の影響が重視され,超高層建築の架構形式は耐風設計を主流に考え出されたものが多い。
→耐震構造 →耐風設計
在来の高さの建物と異なり,建物外部からの救助手段に期待をもてない超高層建築にとって,主として火災時の人命や財産の安全確保を目的とする防災計画は,構造体の安全とともにその計画上きわめて重要である。日本の超高層建築では耐震設計や工期短縮の観点から,純鉄骨による構造形式が大部分であるが,建物に発生した火災に対して構造体の安全を確保する耐火被覆や,火災の発生を極力防止する内装材の不燃化は防災計画の基本である。一方,避難経路の確保と避難施設の配置計画は,平面計画を決定するうえで重要であり,防火区画や防煙区画の形成とともに,超高層建築の平面を決定する要因となっている。また人命の安全に対しては,火災の早期発見,通報システムをはじめとして,初期消火や避難誘導システム,非常用エレベーターや非常用電源の設備が一般化されている。一方,断面計画としては,あるまとまった階数ごとに避難階と称する階を設け,非常時にはその階を安全区画として設定する例も見受けられるが,一般的には各階層ごとに,煙や火災を遮断する水平区画が形成され,出火階から他階へ脱出すれば安全が確保できるように計画的にも施工的にも処理されているのが通常である。
日本における超高層建築は,無秩序化しつつある都市空間の再構成,再開発の一手法として存在し,過密化した都市空間の高度利用と,高層化によって生み出されるオープンスペースの都市への還元がその主要な目的の一つであった。霞が関ビル以降,数多くの超高層建築が建設され,一般化したが,その結果,周辺区域では日照問題,電波障害,ビル風といった問題から,ごみ処理,上水道,下水道,大気汚染,さらには交通問題といった都市の基盤にかかわる問題にまで影響を及ぼすことになった。これらの諸問題のうち,具体的かつ有効な解決方法の糸口が見いだされているものは,電波障害および上下水道程度であり,それ以外の影響要因についてはいくつかの解決手段が講じられているものの,基本的な問題解決には至っていないのが現状である。そのような状況の中で,東京都は1980年,〈東京都環境影響評価制度〉を制定し,81年より施行している。これは高さが100mを超え,総床面積が10万m2を超える建物について,土地利用,大気汚染,騒音,振動,地盤沈下,日照阻害,電波障害,風害,地形・地質などの項目について,事業の実施前に調査を行って,影響についての予測と評価をしようとするものである。しかし,現実の過密化した都市空間の中で,超高層建築が一般化すればするほど,その影響範囲はその敷地内にとどまることなく,既存の隣接市街地へと拡大していく。しかも新宿副都心のように,いくつもの超高層建築が時期を異にして建設され,群として林立して存在する場合,その影響の因果関係を明らかにすること自体,非常に困難といわざるをえない。それは取りも直さず超高層建築を単体の建築としてとらえ,個々の問題として解決を計ることが困難であることを示している。すなわち,超高層建築の存在を単に一つの巨大な建築としてとらえるのではなく,都市を構成する施設として,土地利用も配慮した当該敷地を含む広域的な都市計画の中での再開発手段として位置づける必要のある時代に入っているといえよう。
執筆者:村尾 成文+橋本 明
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(暮沢剛巳 建築評論家 / 2007年)
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