中国、清(しん)代乾隆(けんりゅう)期の学者、詩人。江蘇(こうそ)省武進県の商家の出身。字(あざな)は耘松(うんしょう)、号は甌北(おうほく)。幼少から神童とうたわれ、23歳で順天府(北京(ペキン))で挙人となって軍機処に入り、34歳で殿試第一席、進士となって翰林院(かんりんいん)に入った。39歳で広西省鎮安府の知府となって辺境の民政にあたり、広州から貴州へと辺境へ移り、治績はあがっても報いられず、退官して郷里へ帰った。60歳になって閩浙(びんせつ)総督李侍堯(りじぎょう)に懇望され、幕僚となったが、また郷里で安定書院の主講となって著述に専念した。詩名は全国に高く、同時期の袁枚(えんばい)(随園(ずいえん))、蒋士銓(しょうしせん)(蔵園)と並称された。著書に『二十二史箚記(さっき)』『陔余叢考(がいよそうこう)』『簷曝(たんばく)雑記』『甌北詩話』『皇朝武功紀盛』などがある。
[増井経夫]
『増井経夫著『アジアの歴史と歴史家』(1966・吉川弘文館)』
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中国,清中期の学者,詩人。字は耘松,また雲菘,号は甌北(おうほく)。陽湖(江蘇省)の人。乾隆26年(1761)の進士で翰林院に入り《通鑑輯覧》などの編集に当たった。66年に広西鎮安府の知府,70年に広東広州府の知府となり,翌年貴西道の道台に移ったが,その後官を辞して郷里に引退した。しかし87年台湾に林爽文の乱が起こると,閩浙(びんせつ)総督李侍尭に懇望されて幕僚となり,その平定に画策,乱後は再び官を辞して安定書院の主講となり著述に専念した。その著《二十二史劄記(さつき)》は,正史の記述について考証を加えるとともに独自の史論を展開したもので,すぐれた中国史の概論ともいうべく,また経史にわたる学問的随筆としての《陔余(がいよ)叢考》も有名で,ほかに《皇朝武功紀盛》《簷曝雑記》があり,王鳴盛,銭大昕(せんだいきん)とともに清朝の三大史家とされる。一方,詩名も高く《甌北詩集》《甌北詩話》があり,同時代の袁枚(えんばい),蔣士銓と並称された。
執筆者:谷 光隆
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