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趙翼 ちょうよくZhao Yi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

趙翼
ちょうよく
Zhao Yi

[生]雍正5 (1727)
[没]嘉慶19 (1814)
中国,の学者,文人。江蘇省陽湖の人。字,雲崧(うんすう),または耘松(うんしょう)。号,甌北(おうほく)。乾隆26(1761)年進士及第翰林院で『通鑑輯覧(つがんしゅうらん)』の編集に参与。のち地方官となって治績をあげたが貴西道道台で退官。以後郷里にあって老母に孝養を尽くしながら学問,著述,教育に努めて終わった。主著二十二史箚記』(36巻)は正史二十四史)の考証,『陔余叢考』(43巻)は言語,事物などの起源,典拠を記し,清朝考証学の代表的著作の一つ。詩にも長じ,袁枚蒋士銓とともに「乾隆三大家」と称された。『甌北詩話』は李白杜甫など歴代の詩人を論評した書。詩文集『甌北集』(53巻)。

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デジタル大辞泉の解説

ちょう‐よく〔テウ‐〕【趙翼】

[1727~1814]中国、清の歴史学者・文学者。陽湖(江蘇省)の人。字(あざな)は雲松、また耘松(うんしょう)。号、甌北(おうほく)。考証をもととした史学者として有名で、著に「二十二史箚記(さっき)」「陔余叢考(がいよそうこう)」がある。詩に「甌北詩鈔」、詩の評論に「甌北詩話」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちょうよく【趙翼 Zhào Yì】

1727‐1814
中国,清中期の学者,詩人。字は耘松,また雲菘,号は甌北(おうほく)。陽湖(江蘇省)の人。乾隆26年(1761)の進士で翰林院に入り《通鑑輯覧》などの編集に当たった。66年に広西鎮安府の知府,70年に広東広州府の知府となり,翌年貴西道の道台に移ったが,その後官を辞して郷里に引退した。しかし87年台湾に林爽文が起こると,閩浙(びんせつ)総督李侍尭に懇望されて幕僚となり,その平定に画策,乱後は再び官を辞して安定書院の主講となり著述に専念した。

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大辞林 第三版の解説

ちょうよく【趙翼】

1727~1814) 中国、清の学者・詩人。号は甌北おうほく。考証的史学者として「二十二史箚記さつき」を著す。詩人としても名高く、「甌北詩集」「甌北詩話」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

趙翼
ちょうよく
(1727―1812)

中国、清(しん)代乾隆(けんりゅう)期の学者、詩人。江蘇(こうそ)省武進県の商家の出身。字(あざな)は耘松(うんしょう)、号は甌北(おうほく)。幼少から神童とうたわれ、23歳で順天府(北京(ペキン))で挙人となって軍機処に入り、34歳で殿試第一席、進士となって翰林院(かんりんいん)に入った。39歳で広西省鎮安府の知府となって辺境の民政にあたり、広州から貴州へと辺境へ移り、治績はあがっても報いられず、退官して郷里へ帰った。60歳になって(びんせつ)総督李侍堯(りじぎょう)に懇望され、幕僚となったが、また郷里で安定書院の主講となって著述に専念した。詩名は全国に高く、同時期の袁枚(えんばい)(随園(ずいえん))、蒋士銓(しょうしせん)(蔵園)と並称された。著書に『二十二史箚記(さっき)』『余叢考(がいよそうこう)』『簷曝(たんばく)雑記』『甌北詩話』『皇朝武功紀盛』などがある。[増井経夫]
『増井経夫著『アジアの歴史と歴史家』(1966・吉川弘文館)』

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