改訂新版 世界大百科事典 「足尾鉱山」の意味・わかりやすい解説
足尾鉱山 (あしおこうざん)
渡良瀬川の源流地帯,栃木県日光市の旧足尾町にある江戸時代以来の日本の代表的銅山。鉱業権者は古河鉱業(現,古河機械金属)で,古河グループ発祥の地である。鉱床は,足尾山地を構成する秩父古生層の砂岩,粘板岩およびチャートを貫いて噴出した足尾流紋岩に伴うもので,銅を主とする多鉱種の鉱石を産する。標高1273mの備前楯山(びぜんだてやま)を中心とした1800本もの鉱脈と,その周辺部の,おもに古生層中に胚胎する130余の河鹿(かじか)鉱床と呼ばれる塊状,ポケット状の鉱体からなる。
沿革
1610年(慶長15)に発見され,幕府の直山(じきやま)になったと伝えられているが,16世紀後半にはすでに佐野の武士団が稼業していたらしい。26年(寛永3)幕領から東照宮の輪王寺領となるが,47年(正保4)以降は,幕府直営の〈公儀御台所御用山〉として再開発され,江戸城や東照宮,芝の増上寺の銅瓦などを製造した。62年(寛文2)から6年間は毎年300t,76年(延宝4)には1300t,84年(貞享1)には1500tの丁銅を浅草の御用蔵に納めた。寛文~貞享の20年間は近世における足尾銅山の全盛期で,〈足尾千軒〉と呼ばれる繁栄を謳歌した。このころ長崎港から輸出される銅の1/5は足尾産銅が当てられ,これを〈五か一銅〉と称した。元禄に入ると産銅は急減し,1700年(元禄13)ころには年産150tに落ちこんだ。以後,幕府から多額の拝借金や寛永通宝の鋳造許可を得て経営の立て直しをはかるが,産銅量は年産100t前後に止まり,19世紀初頭にはほとんど廃山同様となる。1844年(弘化1)にはかつて44人もいた銅山師は5人に減り,タンパン(硫酸銅溶液)の採取をするのみとなった。明治維新後国に没収されるが,71年(明治4)民営に移り,77年古河市兵衛が買収した。市兵衛は相馬家の志賀直道と渋沢栄一からの資金援助と,草倉銅山の利益をつぎこんで開削を進め,81年鷹の巣直利(なおり)(直利は富鉱帯のこと),84年横間歩直利を発見した。生産第一主義を経営方針とする市兵衛は,他の鉱山に先がけて蒸気巻き立坑,鉄索による運搬,選鉱機械,坑内電話,動力ポンプなど最新の鉱山技術を採用する一方,84年には東京本所に溶銅所,88年深川に骸炭所を建設し,89年には本所溶銅所で電気分銅を開始した。坑内外の近代化の仕上げは,90年の間藤原働所(日本最初の水力発電所)の竣工に伴う運搬と排水の電化,93年のベッセマー転炉の操業開始,96年の大通洞の貫通であった。足尾の生産量は1877年47t,80年92t,85年4127t,90年5846t,1900年6653tと急増し,市兵衛の経営に帰してわずか10年たらずで全国産銅の4割を占める大銅山となった。しかし,こうした生産増加が足尾鉱毒事件を惹起したことはあまりにも有名。日露戦争後階段掘りの採用と飯場制度の改革が原因で全山廃虚と化す足尾鉱山暴動事件が発生,その後19年と21年にも大争議が起こった。大正期になると,MS式浮遊選鉱法や足尾式削岩機の採用,河鹿鉱床の発見などにより,やや停滞気味だった生産量は一段と上昇し,1917年には年産1万5735tと足尾銅山史上の最大を記録した。第2次大戦中は朝鮮人や中国人の強制労働が行われた。戦後は戦時中の乱掘により自山出の産銅は減少し,買鉱分がしだいに増加した。56年フィンランドのオートクンプ社から自溶製錬技術を導入,同時に濃硫酸の製造を開始した。
現況
1973年2月,鉱量の枯渇と鉱毒問題の再燃を二大要因として鉱山部は廃止され,製錬所のみが輸入鉱石の処理を行うようになった。82年には年間粗銅約3万7000t,濃硫酸約11万tを生産したが,その生産も90年代初めに中止された。現在はスクラップ処理の過程で出るブラックカッパーを年間10t程度生産しているにすぎないが,坑内外から流出してくる銅,砒素などを含む坑廃水の処理と煙害地や廃石の堆積場の復旧作業が続けられている。
執筆者:山口 梅太郎+菅井 益郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報