(中村青志)
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明治時代の実業家。古河財閥の創設者で,鉱山王と呼ばれた。京都岡崎に生まれ,幼名を木村巳之助という。17歳で商人を志し,一時は南部藩御用掛鴻池屋伊助店に勤めたが,26歳のとき古河太郎左衛門の養子となり,古河市兵衛と名のった。以後,養父の縁で京都井筒屋小野店に勤め,奥州一帯の生糸を買い付けては外人排斥の危険を冒して横浜に送り,同店の生糸取引に手腕をふるった。その功により38歳で小野宗家より別宅を許され,東京に居を構えて生糸貿易,蚕糸改良,築地製糸場(1871年器械をヨーロッパから輸入し,初めての器械繰りの糸を作る)経営に活躍し,また岡田平蔵らと院内,阿仁など東北各地の鉱山の経営にあたった。1874年に政府為替方の任にあった小野組が破産したため,独立して事業経営にのりだした。まず相馬家の援助で草倉鉱山の経営に着手し,77年には足尾鉱山を取得し,渋沢栄一の第一銀行からの資金援助で急速に産銅高を伸ばした。その結果,1890年代には日本の産銅量の3~4割を占めるに至り,事業経営の基盤を築いた。市兵衛が着手した鉱山は十指に余るほどであり,みずからその経営理念を〈運・鈍・根〉と称し,独立して以後は鉱山経営に専念し,他業には固くいましめて手を出さなかったという。
→古河財閥
執筆者:武田 晴人
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明治期の実業家、古河財閥の創始者。天保(てんぽう)3年3月16日、京都岡崎の商人の次男に生まれる。幼時から立身出世の願望が強く、伯父を頼って出郷し盛岡の鴻池屋(こうのいけや)の手代となる。1858年(安政5)に小野組(おのぐみ)糸店手代、古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛を名のる。その後小野組に勤め、幕末・維新期に生糸貿易に敏腕を振るうとともに、阿仁(あに)、院内など諸鉱山の経営にあたった。小野組破産に伴い零落したが、渋沢栄一らの資金援助を得て鉱山業に乗り出し、1877年(明治10)にはそれまで活動の中心をなしてきた生糸取引業をやめ、鉱山経営に専念するようになった。とくに足尾銅山の経営には力を注ぎ、大学出の新進技術者を多数採用して、大通洞の開削をはじめ水力発電所の建設やベッセマー精錬法の導入など鉱山技術の革新に努めた。この結果、買収時には廃山同然であった足尾は、1890年代には早くも全国第一の銅山にまで発展し、市兵衛も銅山王としての地位を築いた。さらに阿仁、院内などの金・銀・銅山および炭坑の経営にあたり、電気精銅所など関連事業へも進出した。晩年には足尾銅山鉱毒事件の発生などにより、彼の独裁は揺らぎ、古河鉱業(現古河機械金属)事務所が設置され経営方針も変化した。明治36年4月5日死去。
[杉山和雄]
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1832.3.16~1903.4.5
明治期の実業家・鉱業家。京都岡崎の商人木村長右衛門の次男。小野組糸店の手代古河太郎左衛門の養子になり古河市兵衛を名のる。小野組に勤め,生糸貿易でその才能をみせたが,小野組が破産したため独立。渋沢栄一らの援助で鉱山経営にのりだし,1877年(明治10)足尾銅山を取得すると積極的に洋式技術を導入し,日本最大の銅山に育てた。官営の院内・阿仁両鉱山の払下げをうけるなど鉱山業を拡大し,銅山王とよばれた。しかし足尾銅山鉱毒事件をひきおこし,経営が難局を迎えるなかで没した。
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…1844年(弘化1)にはかつて44人もいた銅山師は5人に減り,タンパン(硫酸銅溶液)の採取をするのみとなった。明治維新後国に没収されるが,71年(明治4)民営に移り,77年古河市兵衛が買収した。市兵衛は相馬家の志賀直道と渋沢栄一からの資金援助と,草倉銅山の利益をつぎこんで開削を進め,81年鷹の巣直利(なおり)(直利は富鉱帯のこと),84年横間歩直利を発見した。…
…古河市兵衛経営の足尾銅山(現,古河機械金属株式会社)から流出する鉱毒が原因で,渡良瀬川流域の広大な農地が汚染され,明治中期から後期にかけて一大社会問題化した公害事件。今日の公害問題の特質のほとんどをそなえているため,日本の〈公害の原点〉と称される。…
…維新後,秋田県営となり,1875年に官営に移管され,ドイツ人メツゲルAdolph Mezgerらの外人技師を中心に,鉱業・冶金技術の改善が進められた。85年に,古河市兵衛に払い下げられ,つづいて技術改善と経営合理化が進められ,新しい金・銅鉱脈の発見もあって,一時活況をとりもどしたが,1931年に休山。33年金・銅山として再開したが,第2次大戦後は休山,再開をくりかえした。…
…廃藩後,小野組の経営するところとなったが,同組の破産後,秋田県の所管となった。75年に工部省の官営鉱山とされ,79年には御雇外国人P.レウィンら2人のドイツ人技師を招いて西欧の鉱山技術の導入による経営の近代化が進められたが,85年に古河市兵衛に払い下げられた。古河鉱業会社の経営となってから,銀産額は91年には3800貫に,94年には4000貫にと飛躍した。…
…1989年10月に,社名を古河鉱業(株)から古河機械金属(株)に改称。その前身は1875年(明治8)に古河市兵衛が東京・深川に設立した古河本店で,同年渋沢栄一の助力を得て草倉銅山(新潟県),77年足尾銅山(栃木県)の経営を開始した。85年には官営の阿仁銅山,院内銀山(ともに秋田県)の払下げを受け,91年に永松銅山(山形県),99年久根銅山(静岡県)など多くの鉱山を稼行した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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