足尾鉱山暴動(読み)あしおこうざんぼうどう

改訂新版 世界大百科事典 「足尾鉱山暴動」の意味・わかりやすい解説

足尾鉱山暴動 (あしおこうざんぼうどう)

1907年(明治40)2月に足尾銅山で起こった鉱夫の暴動。足尾銅山暴動ということが多い。きっかけは,同月4日の通洞坑内見張所における採鉱夫と現場係員の衝突であったが,これは飯場頭の挑発の疑いが濃い。当時,足尾では永岡鶴蔵,南助松らの大日本労働至誠会足尾支部(1906年10月結成)が賃上げ運動を組織し,また友子(ともこ)同盟と結んで飯場頭の中間搾取を制限する活動を展開していた。飯場頭らは至誠会をつぶすために部下の鉱夫を買収し騒動を起こさせた。しかし,飯場頭の思惑をこえて暴動は全山に波及した。とくに6日朝,騒動の鎮撫につとめていた永岡,南らが逮捕された後はまったく統制を失い,鉱業所長をはじめ職員が袋だたきにされ,事務所や職員社宅が打ちこわされた。鉱夫の一部は倉庫を襲って酒を飲み,火を放った。このため高崎連隊に出動命令が下り,7日3個中隊が到着,銃剣のもとで360余人が検挙され,ようやく鎮圧された。

 暴動の原因は,現場係が賃金査定の際にわいろを要求するなど鉱夫処遇に不公正があったこと,日露戦争の戦費をまかなうための増税,物価騰貴による実質賃金の低下などであった。07年には足尾のほか幌内炭鉱(4月),別子銅山(6月)で暴動が起きたのをはじめ,全国各地で労働争議が頻発し,第1次大戦前の最高を記録した。足尾暴動は,これら一連の争議口火を切り,起爆剤的役割をはたした。

1907年の足尾,別子のほかにも,鉱山,炭鉱では明治・大正期を通じて労働争議が多発し,暴動化したものが少なくない。なかでも長崎県下の高島炭鉱の暴動は有名で,1870-78年に5回もの暴動が起きている。また1918年夏の米騒動では,吉岡銅山(岡山),宇部炭鉱(山口),亀田炭鉱(福岡),岩屋杵島・相知炭鉱(佐賀),三池炭鉱(熊本)などで暴動が起きている。これらの争議・暴動の性格,原因は一様ではないが,あえて鉱山で多発した要因をあげれば,次のとおりである。(1)鉱山業は早くから男子労働者を集め,また一経営の規模が大きかったこと。1880年に鉱山労働者は約5万人,その1割は高島炭鉱で働いていた。1909年,鉱山労働者は23.6万人で製糸業の18万,紡績業の10万人をこえ,3000人以上の事業所30のうち14は鉱山,炭鉱であった。(2)賃金が職員の査定による出来高給で,不公正が生じやすかったこと。(3)飯場頭らによる労働者支配はしばしば暴力を伴い,これに対する反抗も暴力的となったこと。(4)労働者が一定地域に密集して居住していたこと。これは居住環境の劣悪さを意味すると同時に,団結を容易にした。(5)鉱夫と職員の格差が賃金水準だけでなく,社宅の質,供給物品の差(内地米と外米など)として目に見える形で存在したこと。(6)江戸時代以来の伝統的な鉱夫の同職団体である友子同盟が運動の母体となりえたこと。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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