全農と略称する。(1)日本農民組合(日農)は、1927年(昭和2)2月の第二次分裂によって、日農と全日本農民組合(全日農。1927年3月結成)に分かれたが、翌28年5月に両者がふたたび合同して全国農民組合を結成した。この合同は「左翼合同」とよばれ、「政党支持自由の原則」のもとで結成されたものである。
その後1930年には昭和恐慌が起こり、農民生活は悪化し、農民運動は激しくなっていった。ところが、全農内部にはふたたび厳しい対立が引き起こされた。31年8月に旧日農系の左派は、独自の行動綱領、運動方針、指導部をもつ「全農改革労農政党支持強制反対全国会議」を結成するための全国代表者会議を開催した。これに対し、全農の総本部は杉山元治郎(もとじろう)を中心として旧全日農系がイニシアティブをとっており、地方下部組織を握っていた左派と対立した。ここに全農は、総本部派と全国会議派(全農全会派)とにふたたび分裂した。全農全会派は、小作人組合的農民運動から前進し、独占資本や政府に対して、自作農をも結集した闘争を展開した。だが、この会派でも共産党系と非共産党系との対立が激しくなっていった。全農全会派本部は共産党系が握っていたが、相次ぐ検挙によって33年ごろには壊滅状態となり、地方組織も相次いで総本部に復帰したので、36年には全農の再統一がなった。しかし、37年末の人民戦線事件で中心的活動家が大量に検挙されたため、自己解体の声明を出し、38年1月には大日本農民組合と日本農民連盟とに分解してその生命を終えた。(2)第二次世界大戦後の1947年(昭和22)7月、日本農民組合の第2回大会で除名された平野力三(りきぞう)らが結成した農民組合。社会党右派の農民組織としての性格をもち、58年3月の全日本農民組合連合会(全日農)の結成にあたって全農もこれに参加したが、60年1月に社会党から民主社会党が独立すると、旧全農系の人々は同年8月に全日農を脱退して全国農民同盟を結成した。
[似田貝香門]
略称は全農。
1昭和初期の全国的農民組織。1928年(昭和3)5月27日に左派の日本農民組合と中間派の全日本農民組合が合同して結成された。委員長は杉山元治郎。「土地を農民へ」をスローガンとし,昭和恐慌期の農民運動を指導した。総本部と左派が対立し,31年8月に左派が全農全国会議派を結成したものの,34年頃から徐々に総本部派に復帰。日中戦争が勃発すると活動は困難となり38年2月6日に組織は解体し,一部は大日本農民組合に,一部は日本農民連盟の結成に参加した。
2第2次大戦後の右派の全国的農民組織。1947年(昭和22)7月25日に日本農民組合から分裂して結成され,社会党右派と連携。会長は賀川豊彦。58年3月24日に日本農民組合全国連合会などと合同して全日本農民組合連合会を結成。
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…しかし,組合の分裂や弾圧がつづくなかでも,下部では農民戦線が統一して闘う地域も少なくなかった。そのようななかで,28年には日農と全日本農民組合が再合同して全国農民組合(全農)を結成し,指導の統一をはかったが,方針をめぐる左右の対立・抗争はその後もやまなかった。 1930年代に入り,深刻な農業恐慌がつづくなかで小作争議は再び増勢に転じた。…
※「全国農民組合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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