日本大百科全書(ニッポニカ) 「近藤基樹」の意味・わかりやすい解説
近藤基樹
こんどうもとき
(1864―1930)
海軍造船中将。江戸に近藤真琴(まこと)の長男として生まれる。工部大学校で機械学、造船学を修め、1884年(明治17)卒業、海軍省に入り、イギリスに留学、1893年イギリス海軍大学校を卒業、帰国して海軍造船大技士(大尉)となる。日清(にっしん)・日露戦争に参加した艦船の計画設計に従事し、とくに国産最初の主力艦で装甲巡洋艦の「筑波(つくば)」(1905年進水、排水量1万3750トン)、戦艦「薩摩(さつま)」(1906年進水、1万9350トン)などは世界の注目を浴び、1913年(大正2)には「軍艦の設計殊(こと)に巡洋戦艦の設計」で帝国学士院賞を受けた。その後も多くの艦船の設計を主宰し、日本海軍の発展に寄与した。造船協会(1897年創設)の会長や学会委員を務め、また東京帝国大学講師(造船学)として後進を育成し、平賀譲(ゆずる)ら多数の技術者を輩出した。なお父真琴の死(1886)後、現役のまま攻玉(こうぎょく)社の社長に就任し終生教育に尽くした。
[福井静夫]