コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

近藤真琴 こんどう まこと

8件 の用語解説(近藤真琴の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

近藤真琴

志摩鳥羽藩士、蘭学、航海学、維新後海軍兵学校教官、かな文学論者。明治19年(1886)歿、56才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

こんどう‐まこと【近藤真琴】

[1831~1886]明治初期の教育家。江戸の人。大村益次郎などに蘭式兵学を学んだ。明治2年(1869)海軍操練所出仕となり、海軍兵学校の予備教育機関としての攻玉塾(のち攻玉社)を創設。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

近藤真琴 こんどう-まこと

1831-1886 幕末-明治時代の洋学者,教育者。
天保(てんぽう)2年9月24日生まれ。伊勢(いせ)(三重県)鳥羽藩士。蘭学や航海術をまなび,文久3年(1863)幕府の軍艦操練所翻訳方となる。維新後,兵部省海軍操練所でおしえながら,私塾の攻玉塾(のちの攻玉社)を創立,海軍軍人をそだてた。仮名文字の普及にもつくす。明治19年9月4日死去。56歳。通称は誠一郎。号は芳隣。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

近藤真琴

没年:明治19.9.4(1886)
生年:天保2.9.24(1831.10.29)
幕末・明治初期の洋学者,教育者。幼名鉚之助,通称誠一郎。真琴は諱。鳥羽藩(三重県)藩士近藤儀智,誠子の次男として江戸で生まれる。小浜樸介の家塾などで漢学,国学を学び,さらに高松譲庵に蘭学を学ぶ。安政2(1855)年鳥羽藩蘭学方となり,文久3年(1863)年,幕府の軍艦操練所に通学するかたわら,鳥羽藩江戸中屋敷内の自宅で蘭学塾を開いた。明治2(1869)年海軍操練所に出仕,兵学中教授などを経て,18年には海軍1等教官になる。一方,2年,もと一橋下屋敷に攻玉塾(現攻玉社学園)を開き,海軍予備教育を行った。攻玉塾は4年芝新銭座に移転し,航海測量習練所,陸地測量習練所を併設するなど,特色ある学校として発展した。<参考文献>攻玉社学園編『近藤真琴伝』

(米山光儀)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

こんどうまこと【近藤真琴】

1831‐86(天保2‐明治19)
幕末・明治初期の教育家。鳥羽藩士の子として江戸の藩邸に生まれる。幕末に幕府設立の軍艦操練所で航海術や数学を学び,1863年(文久3)私塾を開設。維新後の69年(明治2)兵部省に出仕,海軍操練所(海軍兵学校の前身)で教授のかたわら,官舎に一時閉鎖した私塾を再興して攻玉塾(のち攻玉社)と名づけ,数学,航海術などを教えた。81年郷里の鳥羽に商船分校(鳥羽商船学校の前身)を設立。このほか,かな文字の普及や幼稚園教育の紹介なども行った。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

こんどうまこと【近藤真琴】

1831~1886) 教育家。江戸の生まれ。幕府海軍操練所翻訳方。維新後、海軍操練所出仕となる。また、海軍予備教育の攻玉塾(のちの攻玉社)を興した。仮名文字論者としても知られる。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

近藤真琴
こんどうまこと

[生]天保2(1831).9.24. 江戸
[没]1886.9.4.
幕末,明治初年の洋学者,教育家。号は芳隣,通称誠一郎。鳥羽藩士の子として江戸藩邸に生れる。幕府の海軍操練所翻訳方を経て明治2 (1869) 年明治政府の海軍操練所に出仕,のちに海軍兵学校教官などを歴任。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

近藤真琴
こんどうまこと
(1831―1886)

教育家、攻玉社(こうぎょくしゃ)の創始者。志摩鳥羽(とば)藩士。江戸に生まれ、名は誠一郎、のちに真琴と改名、芳隣(ほうりん)と号した。初め和漢の学を学んだが、1854年(安政1)ころから蘭学を志し、高松譲庵、続いて村田蔵六(大村益次郎)に師事した。1863年(文久3)軍艦操練所翻訳方を命ぜられ、幕府にも出仕するとともに軍艦奉行(ぶぎょう)矢田堀鴻(やだぼりこう)(景蔵)の塾に入った。この間、オランダのピラールの航海書を翻訳して名を知られ、蘭語や西洋数学、航海術を教えるようになり(為錯(いさく)塾)、英語を独習した。1869年(明治2)兵部省海軍操練所出仕となり、一時閉鎖した塾も再興(攻玉塾、のち攻玉社)、数学、航海術を主とした教育を行い、商船黌(こう)、量地黌あるいは女子科、専修数学科を設置するなど塾の発展に努めた。とくに海軍兵学校の予備教育機関としての役目を果たし、上村彦之丞(かみむらひこのじょう)(1849―1916)、鈴木貫太郎、財部彪(たからべたけし)、加藤寛治(かとうひろはる)、百武三郎(ひゃくたけさぶろう)(1872―1963)、大角岑生(おおすみみねお)(1876―1941)、高橋三吉(1882―1966)、広瀬武夫、佐久間勉(1879―1910)など海軍軍人を輩出、また建築学者の中村達太郎(1860―1942)、水産学者の岡村金太郎、地理学者の志賀重昂(しげたか)、歌人の吉井勇などを出した。国字国語問題にも関心をもち、仮名文字の普及のため「かなのとも」を発会させた。さらに数学の近代化に果たした役割も大きい。長子基樹は造船学者として著名である。[菊池俊彦]
『林季樹編『近藤真琴先生伝』(1937・攻玉社) ▽『攻玉社百年史』(1963・攻玉社学園)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

近藤真琴の関連キーワード井上頼圀洋学所教育者西洋学洋学校奥村精一賀陽済関口開広田憲寛深井仁子

今日のキーワード

平野美宇

卓球選手。2000年4月14日、静岡県生まれ、山梨県育ち。3歳で卓球を開始。07年に小学1年生で全日本選手権大会バンビの部優勝、09年に小学2年生で同大会ジュニアの部初出場を果たし、注目を集めた。13...

続きを読む

コトバンク for iPhone