近藤真琴(読み)コンドウマコト

デジタル大辞泉 「近藤真琴」の意味・読み・例文・類語

こんどう‐まこと【近藤真琴】

[1831~1886]明治初期の教育家江戸の人。大村益次郎などに蘭式兵学を学んだ。明治2年(1869)海軍操練所出仕となり、海軍兵学校の予備教育機関としての攻玉塾(のち攻玉社)を創設

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精選版 日本国語大辞典 「近藤真琴」の意味・読み・例文・類語

こんどう‐まこと【近藤真琴】

  1. 幕末・明治初期の洋学者、教育家。通称誠一郎。号は芳隣。鳥羽藩士。漢学、蘭学、数学、航海術などを学び、幕府軍艦操練所に進み、維新後海軍兵学校教官となる。そのかたわら攻玉社を設立して生徒を教育し、また仮名文字論を唱えた。著に仮名書き国語辞書ことばのその」がある。天保二~明治一九年(一八三一‐八六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近藤真琴」の意味・わかりやすい解説

近藤真琴
こんどうまこと
(1831―1886)

教育家、攻玉社(こうぎょくしゃ)の創始者。志摩鳥羽(とば)藩士。江戸に生まれ、名は誠一郎、のちに真琴と改名、芳隣(ほうりん)と号した。初め和漢の学を学んだが、1854年(安政1)ころから蘭学を志し、高松譲庵、続いて村田蔵六(大村益次郎)に師事した。1863年(文久3)軍艦操練所翻訳方を命ぜられ、幕府にも出仕するとともに軍艦奉行(ぶぎょう)矢田堀鴻(やだぼりこう)(景蔵)の塾に入った。この間、オランダのピラールの航海書を翻訳して名を知られ、蘭語や西洋数学、航海術を教えるようになり(為錯(いさく)塾)、英語を独習した。1869年(明治2)兵部省海軍操練所出仕となり、一時閉鎖した塾も再興(攻玉塾、のち攻玉社)、数学、航海術を主とした教育を行い、商船黌(こう)、量地黌あるいは女子科、専修数学科を設置するなど塾の発展に努めた。とくに海軍兵学校の予備教育機関としての役目を果たし、上村彦之丞(かみむらひこのじょう)(1849―1916)、鈴木貫太郎、財部彪(たからべたけし)、加藤寛治(かとうひろはる)、百武三郎(ひゃくたけさぶろう)(1872―1963)、大角岑生(おおすみみねお)(1876―1941)、高橋三吉(1882―1966)、広瀬武夫、佐久間勉(1879―1910)など海軍軍人を輩出、また建築学者の中村達太郎(1860―1942)、水産学者の岡村金太郎、地理学者の志賀重昂(しげたか)、歌人の吉井勇などを出した。国字国語問題にも関心をもち、仮名文字の普及のため「かなのとも」を発会させた。さらに数学の近代化に果たした役割も大きい。長子基樹は造船学者として著名である。

[菊池俊彦]

『林季樹編『近藤真琴先生伝』(1937・攻玉社)』『『攻玉社百年史』(1963・攻玉社学園)』

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改訂新版 世界大百科事典 「近藤真琴」の意味・わかりやすい解説

近藤真琴 (こんどうまこと)
生没年:1831-86(天保2-明治19)

幕末・明治初期の教育家。鳥羽藩士の子として江戸の藩邸に生まれる。幕末に幕府設立の軍艦操練所で航海術や数学を学び,1863年(文久3)私塾を開設。維新後の69年(明治2)兵部省に出仕,海軍操練所(海軍兵学校の前身)で教授のかたわら,官舎に一時閉鎖した私塾を再興して攻玉塾(のち攻玉社)と名づけ,数学,航海術などを教えた。81年郷里の鳥羽に商船分校(鳥羽商船学校の前身)を設立。このほか,かな文字の普及や幼稚園教育の紹介なども行った。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「近藤真琴」の解説

近藤真琴

没年:明治19.9.4(1886)
生年:天保2.9.24(1831.10.29)
幕末・明治初期の洋学者,教育者。幼名鉚之助,通称誠一郎。真琴は諱。鳥羽藩(三重県)藩士近藤儀智,誠子の次男として江戸で生まれる。小浜樸介の家塾などで漢学,国学を学び,さらに高松譲庵に蘭学を学ぶ。安政2(1855)年鳥羽藩蘭学方となり,文久3年(1863)年,幕府の軍艦操練所に通学するかたわら,鳥羽藩江戸中屋敷内の自宅で蘭学塾を開いた。明治2(1869)年海軍操練所に出仕,兵学中教授などを経て,18年には海軍1等教官になる。一方,2年,もと一橋下屋敷に攻玉塾(現攻玉社学園)を開き,海軍予備教育を行った。攻玉塾は4年芝新銭座に移転し,航海測量習練所,陸地測量習練所を併設するなど,特色ある学校として発展した。<参考文献>攻玉社学園編『近藤真琴伝』

(米山光儀)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近藤真琴」の意味・わかりやすい解説

近藤真琴
こんどうまこと

[生]天保2(1831).9.24. 江戸
[没]1886.9.4.
幕末,明治初年の洋学者,教育家。号は芳隣,通称誠一郎。鳥羽藩士の子として江戸藩邸に生れる。幕府の海軍操練所翻訳方を経て明治2 (1869) 年明治政府の海軍操練所に出仕,のちに海軍兵学校教官などを歴任。この間攻玉社 (攻玉塾) を開設,海軍の航海方面の人材を育成。 F.フレーベルの幼稚園,幼児教育を紹介,女子中等教育にも先駆的役割を果した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近藤真琴」の解説

近藤真琴 こんどう-まこと

1831-1886 幕末-明治時代の洋学者,教育者。
天保(てんぽう)2年9月24日生まれ。伊勢(いせ)(三重県)鳥羽藩士。蘭学や航海術をまなび,文久3年(1863)幕府の軍艦操練所翻訳方となる。維新後,兵部省海軍操練所でおしえながら,私塾の攻玉塾(のちの攻玉社)を創立,海軍軍人をそだてた。仮名文字の普及にもつくす。明治19年9月4日死去。56歳。通称は誠一郎。号は芳隣。

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367日誕生日大事典 「近藤真琴」の解説

近藤 真琴 (こんどう まこと)

生年月日:1831年9月24日
江戸時代;明治時代の洋学者;教育者
1886年没

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