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退廃芸術展 たいはいげいじゅつてんDie Ausstellung der entarteten Kunst

世界大百科事典 第2版の解説

たいはいげいじゅつてん【退廃芸術展 Die Ausstellung der entarteten Kunst】

1937年,ナチスによってミュンヘンで開かれた展覧会。1933年3月,ゲッベルスが国民啓発・宣伝担当の大臣になると,ナチスの文化統制は激化し,ユダヤ人の美術館員追放,近代美術の押収,押収作品のみせしめ展(ドレスデンの〈芸術の堕落の反映〉展,マンハイムの〈文化ボリシェビズム〉展,ニュルンベルクの〈芸術お化け屋敷〉展,カールスルーエの〈退廃芸術〉展など)があいついだ。同年9月,アーリヤ人の証明書をもつ文学者,芸術家,ジャーナリストのみ登録され,あらゆる表現を検閲許可する帝国文化院が発足し,その院長となったA.ツィーグラーは,押収作品による大規模な〈退廃芸術〉展の巡回を企て,37年6月最初のミュンヘン展の初日にはヒトラー,ゲッベルスも臨席して大キャンペーンをくりひろげた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

退廃芸術展
たいはいげいじゅつてん
Austellung Entratete Kunstドイツ語

1937年、ドイツ、ミュンヘンの考古学研究所で開催された展覧会。1933年ゲッベルスが国民啓発・宣伝担当の大臣になると、ナチスの文化統制は厳しさを増し、プロイセン芸術アカデミーの造形部門からの進歩的作家の追放、近代美術を擁護する美術館長や美術館員の解任が相次いで実行に移された。こうした弾圧の頂点をなしたのが「退廃芸術展」であった。ドイツ国内の公立美術館から徴発した約600点の作品に「退廃芸術」の烙印(らくいん)を押し、晒(さら)しものとして公開したこの展覧会には、表現主義、抽象絵画、新即物主義、ダダイズム、シュルレアリスムなど、20世紀美術の主要な動向にかかわる作品が出品された。シャガール、カンディンスキー、マレーHans von Mares(1837―87)、ベックマン、ディックスOtto Dix(1891―1969)、グロッスなどである。
 「アーリア民族」の優位性を説き、ドイツ国内の統合はもとより、ヨーロッパ支配さえもくろむヒトラーとナチスにとって、ギリシア、ローマ以来のヨーロッパの伝統に基づく古典主義の美術は、いわばドイツ・ナショナリズムのイデオロギー装置として必要不可欠なものであり、とりわけドイツ古典主義の美術こそが、模範とするに足る芸術であった。したがって、これに反する近代美術は、すべて「退廃美術」として排斥されるべきものとみなされたのである。1937年7月19日に始まった「退廃美術展」は、3か月の開催期間に200万人を超える入場者を記録した。会場を訪れた一般の人々は、自分たちが生活にあえいでいるときに、かくも愚劣な絵や彫刻に公金が浪費されていたことに憤激を禁じえなかったとされる。展示作品の横に貼(は)られた赤い紙片にはナチスの手によって「働くドイツ民衆の税金から支払われた」という文字が印刷されていたからである。「ドイツの感情を傷つけ、あるいは自然形態を破壊ないしは混乱させる、つまり、仕上げの工芸的、美術的な能力欠如を明らかに示す」作品に対するナチスの政治的攻撃はみごとに成功したのであった。
 こうして近代美術に反感を抱くように仕向けられた大衆が目にするのは、「退廃美術展」開催の1日前の7月18日に、新しく建設された「ドイツ芸術の家」で始まっていた「大ドイツ芸術展」と名づけられた展覧会であった。これは、「退廃芸術の対極に位置する真正のドイツ芸術」884点を一堂に集めて展観し、国民に「民族自身の本質と同時にその芸術の偉大さ、比類なさ」を悟らせるべく開かれた展覧会であり、したがって、「大ドイツ芸術展」と「退廃芸術展」とは、表裏一体の関係のものとしてとらえられるべきものといえよう。この「大ドイツ芸術展」の開会式でヒトラーは「キュビスム、ダダイズム、未来主義(未来派)、印象主義」といった近代美術のさまざまな実験的試みは、「われわれドイツ国民と何の関係もない」としてことごとく否定していた。なぜなら、印象派以降の近代美術の傾向は、すべて古典主義からの逸脱を明確に示し、これを破壊しようとする「退廃芸術」だからである。ヒトラーは次のように宣言する。「ドイツののぼせあがりの最後と、それとともに民族の文化的退廃の最後の諸要素に対して、容赦のない清掃戦争を遂行するであろう」。事実、このことばを裏書きするように、ドイツの100以上の美術館から押収した1万6000点におよぶ作品のうち、4000点以上がみせしめのために焼却され、また残余の作品も外貨獲得のために国外に売却されたのであった。かくして、ナチス、そしてドイツ民族にとって排除されるべき作品を糾弾した「美術のテロル」ともよぶべき「退廃芸術展」は、政治が美術を徹底的に蹂躙(じゅうりん)した時代のもっともいまわしい蛮行として、美術史上に深い爪痕(つめあと)を残すことになったのである。[村田 宏]

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世界大百科事典内の退廃芸術展の言及

【アバンギャルド】より

…だが,ソ連ではスターリンの支配体制が完成した1930年代初頭,芸術諸団体の解散とジャンル別単一組織への再編が共産党によって決定され,社会主義リアリズムが創作と批評の基本方法として公認されたため,20年代にめざましかった前衛芸術はタブーとなり,メイエルホリド,パステルナーク,エイゼンシテイン,マレービチらは粛清されるか,沈黙を強いられた。他方,ヒトラー政権下のドイツでは,前衛芸術を文化ボリシェビキ,ユダヤ的毒性の産物としてさらしものにする,〈退廃芸術展〉のキャンペーンが各地でつづけられたことも忘れられない。 第2次大戦後の前衛芸術は,ネオ・ダダ,反芸術,カウンター・カルチャー(対抗文化)などの観念と結びついて,いっそう広範な階層にまで浸透し,抽象表現主義,アンフォルメル,ポップ・アート,オップ・アート,ミニマル・アート,ライト・アート,キネティック・アート,概念芸術(コンセプチュアル・アート)などの美術潮流,ヌーボー・ロマン,不条理劇,アンダーグラウンド演劇(前衛劇),プライベート映画などがめまぐるしく盛衰した。…

【第三帝国】より

… これに代わって,アカデミズムや文学の場で,ナチスの好むドイツ民族の〈血〉や〈生命〉や〈精神〉が強調されるようになっていった。時期はやや遅れるが,表面的に目だつ行動としては,37年7月の〈退廃芸術展〉の開催があげられる。民族的な芸術を鼓吹する〈大ドイツ芸術展〉と同じ時期に,同じミュンヘンで,〈退廃的〉な造型美術作品が展覧されたのである。…

※「退廃芸術展」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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