日本大百科全書(ニッポニカ) 「退廃芸術展」の意味・わかりやすい解説
退廃芸術展
たいはいげいじゅつてん
Austellung Entratete Kunst ドイツ語
1937年、ドイツ、ミュンヘンの考古学研究所で開催された展覧会。1933年ゲッベルスが国民啓発・宣伝担当の大臣になると、ナチスの文化統制は厳しさを増し、プロイセン芸術アカデミーの造形部門からの進歩的作家の追放、近代美術を擁護する美術館長や美術館員の解任が相次いで実行に移された。こうした弾圧の頂点をなしたのが「退廃芸術展」であった。ドイツ国内の公立美術館から徴発した約600点の作品に「退廃芸術」の烙印(らくいん)を押し、晒(さら)しものとして公開したこの展覧会には、表現主義、抽象絵画、新即物主義、ダダイズム、シュルレアリスムなど、20世紀美術の主要な動向にかかわる作品が出品された。シャガール、カンディンスキー、マレーHans von Marées(1837―87)、ベックマン、ディックスOtto Dix(1891―1969)、グロッスなどである。
「アーリア民族」の優位性を説き、ドイツ国内の統合はもとより、ヨーロッパ支配さえもくろむヒトラーとナチスにとって、ギリシア、ローマ以来のヨーロッパの伝統に基づく古典主義の美術は、いわばドイツ・ナショナリズムのイデオロギー装置として必要不可欠なものであり、とりわけドイツ古典主義の美術こそが、模範とするに足る芸術であった。したがって、これに反する近代美術は、すべて「退廃美術」として排斥されるべきものとみなされたのである。1937年7月19日に始まった「退廃美術展」は、3か月の開催期間に200万人を超える入場者を記録した。会場を訪れた一般の人々は、自分たちが生活にあえいでいるときに、かくも愚劣な絵や彫刻に公金が浪費されていたことに憤激を禁じえなかったとされる。展示作品の横に貼(は)られた赤い紙片にはナチスの手によって「働くドイツ民衆の税金から支払われた」という文字が印刷されていたからである。「ドイツの感情を傷つけ、あるいは自然形態を破壊ないしは混乱させる、つまり、仕上げの工芸的、美術的な能力欠如を明らかに示す」作品に対するナチスの政治的攻撃はみごとに成功したのであった。
こうして近代美術に反感を抱くように仕向けられた大衆が目にするのは、「退廃美術展」開催の1日前の7月18日に、新しく建設された「ドイツ芸術の家」で始まっていた「大ドイツ芸術展」と名づけられた展覧会であった。これは、「退廃芸術の対極に位置する真正のドイツ芸術」884点を一堂に集めて展観し、国民に「民族自身の本質と同時にその芸術の偉大さ、比類なさ」を悟らせるべく開かれた展覧会であり、したがって、「大ドイツ芸術展」と「退廃芸術展」とは、表裏一体の関係のものとしてとらえられるべきものといえよう。この「大ドイツ芸術展」の開会式でヒトラーは「キュビスム、ダダイズム、未来主義(未来派)、印象主義」といった近代美術のさまざまな実験的試みは、「われわれドイツ国民と何の関係もない」としてことごとく否定していた。なぜなら、印象派以降の近代美術の傾向は、すべて古典主義からの逸脱を明確に示し、これを破壊しようとする「退廃芸術」だからである。ヒトラーは次のように宣言する。「ドイツののぼせあがりの最後と、それとともに民族の文化的退廃の最後の諸要素に対して、容赦のない清掃戦争を遂行するであろう」。事実、このことばを裏書きするように、ドイツの100以上の美術館から押収した1万6000点におよぶ作品のうち、4000点以上がみせしめのために焼却され、また残余の作品も外貨獲得のために国外に売却されたのであった。かくして、ナチス、そしてドイツ民族にとって排除されるべき作品を糾弾した「美術のテロル」ともよぶべき「退廃芸術展」は、政治が美術を徹底的に蹂躙(じゅうりん)した時代のもっともいまわしい蛮行として、美術史上に深い爪痕(つめあと)を残すことになったのである。
[村田 宏]