酒井忠義(読み)さかい・ただあき

朝日日本歴史人物事典 「酒井忠義」の解説

酒井忠義

没年:明治6.12.5(1873)
生年:文化10.7.9(1813.8.4)
幕末維新期の若狭小浜藩(福井県)藩主。忠進の子。天保5(1834)年藩主となる。奏者番,寺社奉行を経て同14年京都所司代。日米修好通商条約調印があり朝幕関係が悪化した安政5(1858)年6月,往年の経験をかわれ所司代に再任。老中間部詮勝を補佐し,穏便論を採りながらも大老井伊直弼による安政の大獄に協力。桜田門外の変で井伊が倒れたのち,公武合体を図って将軍徳川家茂と皇妹和宮の結婚を実現に導くが,尊攘派志士から非難を受け,京の治安を維持し得なかったこともあって,文久2(1862)年6月辞職。同年閠8月隠居,次いで蟄居の処分を受けた。明治1(1868)年12月,時の藩主忠氏が死去し再相続,翌2年版籍奉還により小浜藩知事,廃藩置県に伴い免官,居を東京に移した。

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「酒井忠義」の解説

酒井忠義 さかい-ただあき

1813-1873 江戸後期-明治時代の大名
文化10年7月9日生まれ。酒井忠進(ただゆき)の6男。義兄酒井忠順(ただより)の養子となり,天保(てんぽう)5年若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩主酒井家12代。京都所司代在職中,将軍継嗣問題一橋派を弾圧し,安政の大獄の発端をつくる。皇女和宮(かずのみや)の降嫁に奔走して加増されたが,寺田屋事件などで免職,隠居。明治元年忠禄(ただとみ)とあらため,再相続し14代となった。明治6年12月5日死去。61歳。

酒井忠義 さかい-ただよし

1644-1681 江戸時代前期の大名。
寛永21年7月5日生まれ。酒井忠当(ただまさ)の子。万治(まんじ)3年出羽(でわ)鶴岡藩(山形県)藩主酒井家3代となる。高力忠兵衛(こうりき-ちゅうべえ)を郡代に抜擢(ばってき)し,藩の財政改善をはかるが,農民の不満をつのらせ,忠兵衛は失脚した。天和(てんな)元年11月7日死去。38歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の酒井忠義の言及

【小浜藩】より

…若狭国小浜に居城を置いた譜代中藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦のとき西軍に属した木下勝俊が除封され,そのあとに近江大津城主であった京極高次が入部し,若狭一国8万5000石を領した。翌年,高次は近江国高島郡のうちにおいて7000石を加増され,ついで高次の子忠高は,24年(寛永1)越前国敦賀郡2万1000石を加増され,領地高は合計11万3500石となった。高次は,守護武田氏以来の後瀬山城を小浜(雲浜)に移し,小浜城下の町割りを行った。…

※「酒井忠義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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