百科事典マイペディア 「将軍継嗣問題」の意味・わかりやすい解説
将軍継嗣問題【しょうぐんけいしもんだい】
→関連項目安政の大獄|岩瀬忠震|西郷隆盛|伊達宗城|徳川慶喜|橋本左内|堀田正睦|明治維新|山内容堂
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江戸幕府の末期,13代将軍徳川家定の継嗣をめぐる紛争。12代家慶(いえよし)がペリー初度来航の1853年(嘉永6)に死ぬと,次の家定は病弱で非常時の将軍にふさわしくないうえに子供がないため,継嗣問題が切実になった。家慶は生前,水戸の徳川斉昭(なりあき)の第7子を愛して一橋家の養子に入れていたが,実子の家定を廃してその一橋慶喜(よしのぶ)を後継者と決めるほどの勇断は下せないまま世を去った。越前藩主松平慶永(よしなが),薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)らが,この一橋慶喜を擁立する運動を起こした。一橋派には幕政改革を求める雄藩主や開明派の幕臣が連なり,幕府を欧米型の近代国家の方向へ脱皮させようともくろんだ。これに対し家定は,自分の後継ぎに紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を望んだ。幕府をこれまでどおりに運営すればいいと考える譜代大名の多くが紀州派に集まった。大奥も水戸の斉昭に対する反感から紀州派に傾き,島津斉彬の手で家定の室として送りこまれた篤姫(天璋院)は,苦しい立場に置かれた。家定の継嗣問題は,日米修好通商条約の締結がからんだため,一段と激烈で複雑な政争となった。両派内それぞれに条約への賛否両論を抱え,しかもそれぞれに条約勅許問題を継嗣問題を有利に展開させるための取引材料としたからである。この決着は,58年彦根藩主井伊直弼の大老就任によってつけられた。井伊は,条約調印もやむをえないとの決断を下すとともに,将軍の養子は慶福(14代家茂(いえもち))に決まったと公表し,反対派をことごとく弾圧した。ライバルの一橋慶喜も処罰を受け,隠居謹慎の身となった。しかし皮肉なことに,62年(文久2)将軍家茂の後見職として政治の世界に復活し,曲折の末,66年(慶応2)家茂の後を継いで15代将軍となった。
執筆者:松浦 玲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ペリー来航直後に就任した13代将軍徳川家定(いえさだ)(在位1853~58)の継嗣決定をめぐる政争。一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)・紀州徳川慶福(よしとみ)両擁立派が対立して政治問題化し、安政(あんせい)の大獄の一原因となった。家定は生来虚弱で子がなく政務も老中任せであったため、継嗣決定を望む声が強く、水戸前藩主徳川斉昭(なりあき)の子慶喜と家定の従兄弟(いとこ)にあたる慶福の2人が候補者に擬せられた。松平慶永(よしなが)は島津斉彬(なりあきら)ら有志大名と図り、海防掛の旗本岩瀬忠震(ただなり)らの支持のもと、年長で英明な慶喜をあげて幕府の基礎を固め、そのもとに雄藩明君を結集した統一体制を樹立して内外多難の問題を解決せんと図り、老中阿部正弘(まさひろ)の暗黙の了解を得ていた(一橋派)。一方、譜代(ふだい)大名の筆頭井伊直弼(いいなおすけ)は、将軍相続に第三者が介入することは秩序の破綻(はたん)を招くとの考えのもとに、血統近く家定自身も支持する慶福こそふさわしいとして一橋派に激しく対抗した(南紀派)。1858年(安政5)両派ともそれぞれ謀臣橋本左内(さない)、長野主膳(しゅぜん)(義言(よしとき))を京都へ送り、朝廷の有利な言辞を得ようと奔走したが、4月井伊大老の出現によって6月25日慶福(家茂(いえもち))決定の発表がなされた。7月5日慶永ら一橋派大名は隠居謹慎となり、海防掛の幕吏も次々に処罰された。この問題は、これまで国政の動向にかかわりをもたなかった親藩・外様(とざま)有志大名が発言権を求めた運動として評価される。
[山口宗之]
『文部省維新史料編纂事務局編『維新史』(1939~41・明治書院)』▽『渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(1918~31・竜門社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
江戸幕府13代将軍徳川家定の継嗣をめぐる政争。ペリー来航を契機とする対外的危機感の高まりのなかで将軍の強い指導力が期待されたが,病弱な家定には子がなく,焦眉の課題となった。名古屋藩主徳川慶勝・福井藩主松平慶永(よしなが)・鹿児島藩主島津斉彬(なりあきら)や開明派の幕臣らは雄藩連合構想の実現をも期待して,前水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家当主慶喜(よしのぶ)に期待をかけた(一橋派)。一方,家定のいとこにあたる和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を推す南紀派は譜代大名・幕閣・大奥を中心に結集し,血統の強さを主張した。1858年(安政5)4月,家定は一橋派の老中堀田正睦(まさよし)の上申をうけたが,慣例に従って井伊直弼(なおすけ)を大老とし,6月条約調印と慶福継嗣を決定した。井伊は違勅条約に調印,継嗣反対派を安政の大獄で断罪し,10月徳川家茂の将軍宣下で決着した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…多数の逮捕者と処刑者が出た。
[原因]
大獄の原因となったのは,将軍継嗣問題と条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争である。1853年(嘉永6)に13代将軍となった徳川家定は,このときすでに30歳であったが1人の子女もなく,また政務をとる能力に欠けていた。…
…1850年(嘉永3),長兄直亮の死により13代彦根藩主となった。この時期の幕政の重要問題は,開国の可否と将軍継嗣問題とであった。直弼は鎖国の維持を望んでいたが,外国と戦って鎖国を守りぬくことが不可能である以上,当面は開国せざるをえないという立場に立った。…
…家慶には実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を講ずる余裕がないままペリー来航の恐慌状態下に家慶が死ぬと,13代将軍となった家定の後嗣をめぐって大きな政争が起こり,慶喜は改革派の大名や幕臣から能力ある将軍候補として推され,保守血統主義派にかつがれた紀州の慶福(よしとみ)(家茂)と対立関係に入った(将軍継嗣問題)。この政争は家定の意志と井伊直弼の登場とによって紀州派が勝利し,慶喜は安政の大獄の一環として隠居謹慎の処分を受けた。…
…ペリー来航後,斉昭と親しく親戚でもあった老中阿部正弘に盛んに意見上申し,国政参加への意欲をみせた。将軍家定が凡庸多病のため,外圧に対処し国内体制を固めるには英明な将軍擁立を第一とする見解に立って,島津斉彬(なりあきら),山内豊信(とよしげ)(容堂),伊達宗城(むねなり)らと連絡し,橋本左内の補佐のもと一橋派運動に努力した(将軍継嗣問題)。しかし紀州慶福(家茂)を推す大老井伊直弼のため1858年(安政5)隠居謹慎の処分をうけ,左内も安政の大獄で刑死した。…
※「将軍継嗣問題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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