明治・大正時代の政治家。天保(てんぽう)6年2月25日、鹿児島城下の下荒田(しもあらた)正建寺(せいけんじ)に薩摩(さつま)藩士松方正恭(まさやす)の子として生まれる。幼名を金次郎と称し、正作、三之丞(さんのじょう)、一郎、助左衛門と改名する。1852年(嘉永5)から7年間大番頭座書役(だいばんとうざしょやく)につき、1860年(万延1)大守島津忠義(しまづただよし)に随行して江戸出府を命ぜられる。この年末に同藩士川上左太夫(かわかみさだゆう)の長女満佐子(まさこ)と結婚。1862年(文久2)には島津久光(ひさみつ)に随行して京、江戸へ出向く。1866年(慶応2)には藩の軍艦掛につき、軍艦や小銃の購入など藩の軍備強化に奔走し、薩長同盟の促進にも尽力した。明治新政府の成立後は、九州鎮撫使(ちんぶし)参謀、長崎裁判所参謀、日田(ひた)県知事などを歴任したあと、1871年(明治4)に大蔵権大丞(ごんのたいじょう)や租税権頭(ごんのかみ)などに就任。その後、勧業頭や内務省勧農局長など勧業関係の役職を経て、1880年には内務卿(きょう)、翌1881年には参議兼大蔵卿に就任した。大隈重信(おおくましげのぶ)にかわって大蔵卿に就任した松方は、いわゆる松方財政を展開し、紙幣整理と軍拡を強行した。松方デフレともよばれたこの政策は、インフレを終息させることに成功したが、物価の急落を招き、多数の農民が土地を失い、地主制の成立を促進した。1885年の内閣制度発足と同時に大蔵大臣に就任し、その後1900年(明治33)まで第二次・第三次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣のときと、第一次大隈内閣のときの5年ほどを除いて、ほぼ一貫して大蔵大臣の地位にあった。この間1888年(明治21)には内務大臣兼務、1890年には貴族院議員となり、1891~1892年と、1896~1898年の2回にわたり総理大臣に就任するなど権勢を誇った。支配層内部に松方閥なるグループが形成され、政府・宮中などに強い影響力を有した。1898年には元勲に待遇され、1903年(明治36)には枢密院顧問官、1917年(大正6)には内大臣に就任し、閣外から明治の元勲として政治に影響力をもち続けた。大正13年7月2日病死。
[春日 豊]
『徳富猪一郎著『公爵松方正義伝』全2巻(1935・同伝記発行所)』▽『中村徳五郎編『侯爵松方正義卿実記』(藤村通監修『松方正義関係文書 1~5』所収・1979~1983・大東文化大学東洋研究所)』▽『戸川猪佐武著『明治・大正の宰相3 松方正義と日清戦争の砲火』(1983・講談社)』▽『室山義正著『松方正義――我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』(2005・ミネルヴァ書房)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書4 松方正義』(2005・ゆまに書房)』▽『藤村通著『松方正義――日本財政のパイオニア』(日経新書)』
薩摩出身の明治藩閥政治家の一人。2度組閣し,また長く大蔵大臣のポストにあって明治国家財政の確立に尽力して功があったが,政治指導者としての評価は必ずしも高くない。
薩摩藩士(初め郷士)松方正恭(まさやす)の四男。幼名金次郎,のち助左衛門。号は孤山(こざん),海東など。貧窮のうちに育ち,島津久光の近習番となり,大久保利通(当時,御側役)に認められた。幕末期,京坂間を往復して政局にかかわり,1865年(慶応1),御船(みふね)奉行添役(そえやく)として長崎に出張,数学と測量術の研究に力をそそいだ。これは,のちの彼の財政家としての活躍の素地になったという。68年(明治1),長崎裁判所参謀,内国事務局判事などを経,大久保の推挙で日田県知事となり,民部大丞(1870),租税権頭(ごんのかみ)(1871)から租税頭(1874)となって地租改正を推進し,75年,大蔵大輔となり,大隈重信を補佐した。77年,勧業局長兼仏国博覧会副総裁となり,翌年渡仏。79年の帰国までにヨーロッパ各国を歴訪,とりわけフランス大蔵大臣レオン・セーの影響をうけたといわれる。松方の財政は,貨幣価値の下落を防ぎ,直輸出政策によって紙幣整理・準備金の増殖をめざそうとしていたため,外債によって紙幣整理を断行しようとしていた大隈財政とは対立する立場にあった。明治14年の政変(1881)で大隈が失脚するや,参議兼大蔵卿となって,松方財政,いわゆる松方デフレ政策を推進した。松方は兌換制を確立し,安定した近代的通貨体制をつくるために1882年,日本銀行を創設した。この松方財政の結果,銀貨兌換制(銀本位制)は確立し,金本位制への第一歩は築かれた。田口卯吉はこれを〈財政上の一大美事〉といい,松方自身,〈白がねの世とはなれどもいつかまた黄金(こがね)花さく春を見んとは〉と歌った。85年,松方は内閣制による初代大蔵大臣となり,伊藤博文,黒田清隆,山県有朋各内閣でそのポストにあった。91年,松方内閣では蔵相を兼任した。大津事件は彼の首相就任6日目に起こったが,そのリーダーシップには批判があった。また,初期議会における民党との対立下の総選挙で,品川弥二郎内相による選挙干渉が行われたのは,この松方内閣のときである。95年,第2次伊藤内閣では蔵相として日清戦争の戦後経営に当たり,翌96年の第2次松方内閣(松隈内閣)でも蔵相を兼任,金本位制を確立した。前記の彼の歌のめざしたものを実現したのである。98年の第2次山県内閣でも大蔵大臣となった。以後,松方は日英同盟を推進し,1902年,欧米を巡遊,帰国後は日本赤十字社社長,枢密顧問官,内大臣などを歴任,22年,公爵となった。死去には国葬が営まれた。三宅雪嶺は〈子多くして福禄寿を兼ねたりと云はれるが,十五銀行の破綻が累となり,嗣子巌が爵位を拝辞し,一抹の悲哀を感ぜしむ〉(《同時代史》)と述べて,その経歴の叙述を結んでいる。伝記には《公爵松方正義》(徳富猪一郎編,全2巻,1935)がある。
執筆者:田中 彰
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(藤井信幸)
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江戸時代末期・明治期の政治家,財政家,公爵 首相;蔵相;枢密顧問官;内大臣;元老。
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1835.2.25~1924.7.2
明治・大正期の政治家。鹿児島藩士の出身。公爵。明治維新後,日田県知事・大蔵大輔・内務卿をへて,明治14年の政変により参議兼大蔵卿に就任。1892年(明治25)まで大蔵卿・蔵相として松方財政を展開,日清戦争後も第2次伊藤・第2次松方・第2次山県内閣の蔵相として戦後経営を担当した。その間86年に銀本位制,97年に金本位制を確立するなど財政・金融制度を整備。2度政権を担当し,第1次内閣では激しい選挙干渉などで民党と対立したが,第2次内閣では進歩党と提携,大隈重信を外相として入閣させ松隈(しょうわい)内閣とよばれた。以後も内大臣に就任するなど,元老として活躍。
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