松方正義(読み)マツカタマサヨシ

デジタル大辞泉 「松方正義」の意味・読み・例文・類語

まつかた‐まさよし【松方正義】

[1835~1924]政治家。鹿児島の生まれ。正雄三郎の父。明治14年(1881)大蔵卿となり、紙幣整理などのデフレ政策を実施。蔵相・首相を歴任。日本銀行創設、金本位制度の実施など、財政制度の確立に寄与。

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精選版 日本国語大辞典 「松方正義」の意味・読み・例文・類語

まつかた‐まさよし【松方正義】

  1. 明治時代の政治家。薩摩藩出身。明治新政府の高級官僚として地租改正殖産興業政策を推進し、明治一四年(一八八一)の政変以降、参議兼大蔵卿として、いわゆる松方財政を推進。日本銀行の創設、兌換制度の確立などに貢献した。その後しばしば蔵相をつとめ、同二四年、二九年に首相。のち枢密院顧問官、内相となった。天保六~大正一三年(一八三五‐一九二四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松方正義」の意味・わかりやすい解説

松方正義
まつかたまさよし
(1835―1924)

明治・大正時代の政治家。天保(てんぽう)6年2月25日、鹿児島城下の下荒田(しもあらた)正建寺(せいけんじ)に薩摩(さつま)藩士松方正恭(まさやす)の子として生まれる。幼名を金次郎と称し、正作、三之丞(さんのじょう)、一郎、助左衛門と改名する。1852年(嘉永5)から7年間大番頭座書役(だいばんとうざしょやく)につき、1860年(万延1)大守島津忠義(しまづただよし)に随行して江戸出府を命ぜられる。この年末に同藩士川上左太夫(かわかみさだゆう)の長女満佐子(まさこ)と結婚。1862年(文久2)には島津久光(ひさみつ)に随行して京、江戸へ出向く。1866年(慶応2)には藩の軍艦掛につき、軍艦や小銃の購入など藩の軍備強化に奔走し、薩長同盟の促進にも尽力した。明治新政府の成立後は、九州鎮撫使(ちんぶし)参謀、長崎裁判所参謀、日田(ひた)県知事などを歴任したあと、1871年(明治4)に大蔵権大丞(ごんのたいじょう)や租税権頭(ごんのかみ)などに就任。その後、勧業頭や内務省勧農局長など勧業関係の役職を経て、1880年には内務卿(きょう)、翌1881年には参議兼大蔵卿に就任した。大隈重信(おおくましげのぶ)にかわって大蔵卿に就任した松方は、いわゆる松方財政を展開し、紙幣整理と軍拡を強行した。松方デフレともよばれたこの政策は、インフレを終息させることに成功したが、物価の急落を招き、多数の農民が土地を失い、地主制の成立を促進した。1885年の内閣制度発足と同時に大蔵大臣に就任し、その後1900年(明治33)まで第二次・第三次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣のときと、第一次大隈内閣のときの5年ほどを除いて、ほぼ一貫して大蔵大臣の地位にあった。この間1888年(明治21)には内務大臣兼務、1890年には貴族院議員となり、1891~1892年と、1896~1898年の2回にわたり総理大臣に就任するなど権勢を誇った。支配層内部に松方閥なるグループが形成され、政府・宮中などに強い影響力を有した。1898年には元勲に待遇され、1903年(明治36)には枢密院顧問官、1917年(大正6)には内大臣に就任し、閣外から明治の元勲として政治に影響力をもち続けた。大正13年7月2日病死。

[春日 豊]

『徳富猪一郎著『公爵松方正義伝』全2巻(1935・同伝記発行所)』『中村徳五郎編『侯爵松方正義卿実記』(藤村通監修『松方正義関係文書 1~5』所収・1979~1983・大東文化大学東洋研究所)』『戸川猪佐武著『明治・大正の宰相3 松方正義と日清戦争の砲火』(1983・講談社)』『室山義正著『松方正義――我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』(2005・ミネルヴァ書房)』『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書4 松方正義』(2005・ゆまに書房)』『藤村通著『松方正義――日本財政のパイオニア』(日経新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「松方正義」の意味・わかりやすい解説

松方正義 (まつかたまさよし)
生没年:1835-1924(天保6-大正13)

薩摩出身の明治藩閥政治家の一人。2度組閣し,また長く大蔵大臣のポストにあって明治国家財政の確立に尽力して功があったが,政治指導者としての評価は必ずしも高くない。

 薩摩藩士(初め郷士)松方正恭(まさやす)の四男。幼名金次郎,のち助左衛門。号は孤山(こざん),海東など。貧窮のうちに育ち,島津久光の近習番となり,大久保利通(当時,御側役)に認められた。幕末期,京坂間を往復して政局にかかわり,1865年(慶応1),御船(みふね)奉行添役(そえやく)として長崎に出張,数学と測量術の研究に力をそそいだ。これは,のちの彼の財政家としての活躍の素地になったという。68年(明治1),長崎裁判所参謀,内国事務局判事などを経,大久保の推挙で日田県知事となり,民部大丞(1870),租税権頭(ごんのかみ)(1871)から租税頭(1874)となって地租改正を推進し,75年,大蔵大輔となり,大隈重信を補佐した。77年,勧業局長兼仏国博覧会副総裁となり,翌年渡仏。79年の帰国までにヨーロッパ各国を歴訪,とりわけフランス大蔵大臣レオン・セーの影響をうけたといわれる。松方の財政は,貨幣価値の下落を防ぎ,直輸出政策によって紙幣整理・準備金の増殖をめざそうとしていたため,外債によって紙幣整理を断行しようとしていた大隈財政とは対立する立場にあった。明治14年の政変(1881)で大隈が失脚するや,参議兼大蔵卿となって,松方財政,いわゆる松方デフレ政策を推進した。松方は兌換制を確立し,安定した近代的通貨体制をつくるために1882年,日本銀行を創設した。この松方財政の結果,銀貨兌換制(銀本位制)は確立し,金本位制への第一歩は築かれた。田口卯吉はこれを〈財政上の一大美事〉といい,松方自身,〈白がねの世とはなれどもいつかまた黄金(こがね)花さく春を見んとは〉と歌った。85年,松方は内閣制による初代大蔵大臣となり,伊藤博文,黒田清隆,山県有朋各内閣でそのポストにあった。91年,松方内閣では蔵相を兼任した。大津事件は彼の首相就任6日目に起こったが,そのリーダーシップには批判があった。また,初期議会における民党との対立下の総選挙で,品川弥二郎内相による選挙干渉が行われたのは,この松方内閣のときである。95年,第2次伊藤内閣では蔵相として日清戦争の戦後経営に当たり,翌96年の第2次松方内閣(松隈内閣)でも蔵相を兼任,金本位制を確立した。前記の彼の歌のめざしたものを実現したのである。98年の第2次山県内閣でも大蔵大臣となった。以後,松方は日英同盟を推進し,1902年,欧米を巡遊,帰国後は日本赤十字社社長,枢密顧問官,内大臣などを歴任,22年,公爵となった。死去には国葬が営まれた。三宅雪嶺は〈子多くして福禄寿を兼ねたりと云はれるが,十五銀行の破綻が累となり,嗣子巌が爵位を拝辞し,一抹の悲哀を感ぜしむ〉(《同時代史》)と述べて,その経歴の叙述を結んでいる。伝記には《公爵松方正義》(徳富猪一郎編,全2巻,1935)がある。
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百科事典マイペディア 「松方正義」の意味・わかりやすい解説

松方正義【まつかたまさよし】

明治の政治家,財政家。薩摩(さつま)鹿児島藩出身。明治政府では大久保利通の推挙で日田県知事となる。以後租税頭,大蔵大輔などに就き地租改正・殖産興業政策を進めた。1881年明治14年の政変で下野した大隈重信にかわって大蔵卿となり,いわゆる松方財政,松方デフレ政策を推進した。1885年―1898年しばしば蔵相を務め,この間1891年,1896年の2度組閣。枢密顧問官,内大臣を務め,晩年は元老。薩閥の巨頭といわれた。→松方正義内閣
→関連項目元老自由民権杉山茂丸頭山満松方幸次郎松方三郎

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「松方正義」の解説

松方 正義
マツカタ マサヨシ


肩書
第4・6代首相,蔵相,枢密顧問官,内大臣,元老

別名
幼名=金次郎 前名=助左衛門 号=海東 孤立

生年月日
天保6年2月25日(1835年)

出生地
薩摩国鹿児島(鹿児島県鹿児島市)

経歴
島津久光の小姓として公武合体運動や討幕運動に関係し、禁門の変や長州攻略に参加後、日田県知事、民部大丞などを経て大蔵省に入り、権大丞、大蔵大輔、勧業頭など財政関係の役職を続け、明治13年内務卿に就任。14年の政変後に大蔵卿となり、18年から31年1月まで約13年間連続して初代の蔵相を務める。その間、2度にわたって首相を兼任しながら、地祖改正や殖産興業政策を強力に推進し、紙幣兌換を断行するなど、近代日本の資本主義国化に必要な財政諸制度、銀行創立を含めた金融システムづくりのすべてに関与、主管し、“松方財政”と呼ばれる足跡を残した。しかし、24年に発足した第1次松方内閣は軍事予算削減などで閣内の意見調整ができず、不統一のため瓦解。また日清戦争のあとの29年に成立した第2次内閣も、せっかく抱きこんだ進歩党の党首、大隈重信外相と対立、政党側の間をまとめることができず総辞職した。明治、大正天皇の信任が厚く、後に枢密顧問官、内大臣として側近に仕え元老として重きをなした。日本赤十字社長も務め、没後は国葬が営まれた。

没年月日
大正13年7月2日

家族
長男=松方 巌(銀行家) 三男=松方 幸次郎(実業家・美術蒐集家) 十三男=松方 三郎(登山家・ジャーナリスト)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「松方正義」の解説

松方正義

没年:大正13.7.2(1924)
生年:天保6.2.25(1835.3.23)
明治大正期の政治家,元老。はじめ金次郎,助左衛門。号は海来。薩摩(鹿児島)藩士松方正恭,袈裟子の4男として生まれたが,幼少の折,両親を失い赤貧に苦しむ。同藩勘定所出物問合方に出仕後,島津久光の側近になり,公武合体運動や討幕運動に関係する。明治1(1868)年5月,新設の日田県知事となり,間引の風習を矯正する一方,県下の富豪に拠金を要請し中央政府の財政に寄与。そして民部大丞を経て大蔵省権大丞になり,以後,租税権頭,租税頭,大蔵大輔,勧業頭 など財政関係の役職を続け,地租改正などに従事。この間に一時渡欧し,財政経済の知識を豊富にする。 大久保利通の死去にともない13年内務卿に就任。西南戦争(1877)を契機とするインフレーションの高進や財政難を克服するために,大蔵卿大隈重信が外債募集による財政整理を断行しようとすると,これに反対。明治14年の政変により大隈が失脚すると大蔵卿に任ぜられ,緊縮財政を強行し紙幣整理を進める一方,日本銀行の設立(1882),兌換銀行券の発行(1884)など財政,金融制度の確立に尽力した。こうした一連の政策を一般に「松方財政」と呼ぶ。しかし景気は急速に下降し,特に農民の被害が大きかった(松方デフレ)。18年の内閣制度の発足と同時に成立した伊藤博文内閣に大蔵大臣として入閣したのち,6年以上蔵相を続け,24年には首相に就任し,蔵相を兼任した(第1次松方内閣)。日清戦争(1894~95)後,第2次伊藤内閣の蔵相になり,戦後経営プランを立案,実施しようとしたが意見が容れられず辞任する。29年再度首相になり(第2次松方内閣),翌年金本位制を実施した。明治,大正両天皇の信任が厚く,晩年は元老として政局に関与した。<参考文献>徳富猪一郎編『公爵松方正義伝』,『松方正義関係文書』1~13巻

(藤井信幸)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「松方正義」の解説

松方 正義
マツカタ マサヨシ

江戸時代末期・明治期の政治家,財政家,公爵 首相;蔵相;枢密顧問官;内大臣;元老。



生年
天保6年2月25日(1835年)

没年
大正13(1924)年7月2日

出生地
薩摩国鹿児島(鹿児島県鹿児島市)

別名
幼名=金次郎,前名=助左衛門,号=海東,孤立

経歴
島津久光の小姓として公武合体運動や討幕運動に関係し、禁門の変や長州攻略に参加後、日田県知事、民部大丞などを経て大蔵省に入り、権大丞、大蔵大輔、勧業頭など財政関係の役職を続け、明治13年内務卿に就任。14年の政変後に大蔵卿となり、18年から31年1月まで約13年間連続して初代の蔵相を務める。その間、2度にわたって首相を兼任しながら、地祖改正や殖産興業政策を強力に推進し、紙幣兌換を断行するなど、近代日本の資本主義国化に必要な財政諸制度、銀行創立を含めた金融システムづくりのすべてに関与、主管し、“松方財政”と呼ばれる足跡を残した。しかし、24年に発足した第1次松方内閣は軍事予算削減などで閣内の意見調整ができず、不統一のため瓦解。また日清戦争のあとの29年に成立した第2次内閣も、せっかく抱きこんだ進歩党の党首、大隈重信外相と対立、政党側の間をまとめることができず総辞職した。明治、大正天皇の信任が厚く、後に枢密顧問官、内大臣として側近に仕え元老として重きをなした。日本赤十字社長も務め、没後は国葬が営まれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松方正義」の意味・わかりやすい解説

松方正義
まつかたまさよし

[生]天保5(1834).2.25. 薩摩,鹿児島
[没]1924.7.2. 東京
明治期の政治家,財政家,薩摩藩士。薩摩藩士松方正恭の4男に生れた。幕末動乱期に寺田屋事件,征長戦,公武合体運動などに関係,倒幕工作にも加わった。藩軍艦掛り,日田 (ひた) 県知事を経て明治3 (1870) 年中央政界に入り大蔵省で地租改正にたずさわった。 1881年の大蔵卿就任以来 1900年にいたるまで,蔵相に7度就任,その間,財政政策に才覚を発揮。「松方財政」と呼ばれる不換紙幣の整理に着手,デフレ政策を行なった。また,日本銀行の創立,金本位制度の確立をはじめ予算,会計,税の各制度の近代的な確立に大きな業績を残した。内閣総理大臣として 91~92年と 96~98年に内閣を組織し,1900年元老に列せられた。 03年に枢密顧問官,17年内大臣。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松方正義」の解説

松方正義
まつかたまさよし

1835.2.25~1924.7.2

明治・大正期の政治家。鹿児島藩士の出身。公爵。明治維新後,日田県知事・大蔵大輔・内務卿をへて,明治14年の政変により参議兼大蔵卿に就任。1892年(明治25)まで大蔵卿・蔵相として松方財政を展開,日清戦争後も第2次伊藤・第2次松方・第2次山県内閣の蔵相として戦後経営を担当した。その間86年に銀本位制,97年に金本位制を確立するなど財政・金融制度を整備。2度政権を担当し,第1次内閣では激しい選挙干渉などで民党と対立したが,第2次内閣では進歩党と提携,大隈重信を外相として入閣させ松隈(しょうわい)内閣とよばれた。以後も内大臣に就任するなど,元老として活躍。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松方正義」の解説

松方正義 まつかた-まさよし

1835-1924 明治-大正時代の政治家。
天保(てんぽう)6年2月25日生まれ。もと薩摩(さつま)鹿児島藩士。パリ万国博の事務局副総裁となり,明治11年渡欧。14年以降大蔵卿,蔵相として紙幣整理,増税の松方財政を推進。また日本銀行を設立し,金本位制を実施。24年,29年の2度内閣を組織し,蔵相をかねた。日本赤十字社社長,枢密顧問官,内大臣を歴任。後年は元老として力をふるった。大正13年7月2日死去。90歳。号は海東,孤立。

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旺文社日本史事典 三訂版 「松方正義」の解説

松方正義
まつかたまさよし

1835〜1924
明治・大正時代の政治家
薩摩藩出身。明治十四年の政変ののち,大隈重信に代わって大蔵卿となり,いわゆる松方財政を推進し,また金本位制の実施など,日本資本主義の発展と経済的基盤の確立に大きな役割を果たした。1891年と'96年には内閣を組織し,第1次内閣では,蛮勇演説問題で議会を解散,総選挙で品川弥二郎内相の選挙干渉があり,第2次内閣は大隈重信と連立し(松隈内閣),金本位制を確立した。1900年元老に列せられた。

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