野川村(読み)のがわむら

日本歴史地名大系 「野川村」の解説

野川村
のがわむら

[現在地名]北川村野川

奈半利なはり川の支流野川川の流域に位置する村で、合流点から上流一里ほどの間に菖蒲しようぶ中村なかむら羽毛はけ五人組ごにんぐみおく瀬戸せんどなどの集落が点在する。奈半利村(現奈半利町)の枝村。古くは山城国石清水いわしみず八幡宮の荘園奈半なは庄に含まれた地で、延久二年(一〇七〇)七月八日付の金剛頂寺解案(東寺百合文書)に記された奈半庄の四至のうちに「北限野川」とある。戦国時代末期には、野川勘解由が当地を本拠としていたが(土佐古城記)、長宗我部氏に敗れた。

長宗我部地検帳では当地は年不詳の西野友村地検帳に含まれ、「爰ヨリ野川之村」として八〇筆一一町二〇代が記される。

野川村
のがわむら

[現在地名]東根市野川

みだれ川扇状地の扇頂部に近く、村名のもとになった野川(村山野川)が村内を西流する。寛保二年(一七四二)の村明細帳(北村山郡史)によれば、東は観音寺かんのんじ村へ一七町余、南は猪野沢いのさわ村へ三〇町、村の長さ一〇町ほど。最上氏領から元和八年(一六二二)山形藩領、寛文八年(一六六八)下野宇都宮藩領、天和元年(一六八一)陸奥白河藩領、寛保元年幕府領、安政二年(一八五五)以降松前藩領。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録では高七〇六石余。正保郷帳では田方四六四石余・畑方二四一石余。元禄五年(一六九二)の村明細帳(小山田文書)では高八七五石余、反別田二四町四反余・畑四七町五反余、新田畑高一八石余、反別田五反余・畑一町七反余で、家数六九(本百姓四三・名子水呑二六)、男二三五・女一五〇、小物成として山野年貢金二分・山守札銭一貫四〇〇文・青苧役銭二貫七六六文・漆役銭一本七文ずつで六貫九六一文がみえる。

野川村
のがわむら

[現在地名]甲南町野川

柑子こうじ村の南東、浅野あさの川の開く丘陵谷部に位置し、家々は複数の垣内に点在する。下野川と上野川に分れる。建武五年(一三三八)三月日の小佐治基氏軍忠状(小佐治文書)に「池原杣并野川郷」とみえる。基氏は同年二月一三日に南朝方の鮎川弥九郎の城を焼き、同二三日・二四日には信楽の南朝軍と当地付近で戦っている。福泉ふくせん寺の裏山などに中世の城跡がみられる。慶長五年(一六〇〇)幕府領。慶安二年書上では山口弘隆(のち常陸牛久藩)領。

野川村
のがわむら

[現在地名]三鷹市新川しんかわ二―六丁目・下連雀しもれんじやく九丁目・牟礼むれ七丁目

下連雀村の南東に位置。もと上仙川かみせんがわ村の北部に広がる原野で秣場であったが、慶長一九年(一六一四)上仙川村を与えられた柴田勝重によって新田開発され、寛文一一年(一六七一)に検地を受け村立てされた。初め仙川新田と称したが、元禄一一年(一六九八)幕府領となり、村名を改称したという(風土記稿)

野川村
のがわむら

[現在地名]葛尾村野川

野川川流域の標高五〇〇―五五〇メートルの高原にあり、東は落合おちあい村、北は田村郡葛尾村、西は上野川村、南は田村郡岩井沢いわいざわ(現都路村)。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「九百拾三文 野川の御百姓うく水惣右衛門」など野川の名を冠した一三人の名がみえる。寛永一六年(一六三九)の高二七九石余(相馬藩政史)。正保郷帳に野河村とあり、田方一二一石余、畑方六二石余。元禄一〇年(一六九七)上野川村を分村。元禄郷帳では野川村は高一八九石余、上野川村は高一四〇石余。

野川村
のがわむら

[現在地名]落合町野川

古見こみ村の西にあり、北は平松ひらまつ村。旭川左(東)岸の低地に位置し、近世大庭おおば郡に属したが、「作陽誌」などでは真島ましま(真島郡)一一村のうちにあげられる。かつては旭川右岸の村であったが、同川の流路変遷により左岸に位置するようになり(作陽誌)、現在も氏神対岸高屋たかやの天津神社である。

野川村
のがわむら

[現在地名]水俣市長崎ながさき

湯出ゆのつる川支流の野川川流域の小盆地にあり、東に同水系の長崎村、西にふくろ村、北に江添えぞえ村がある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳に「水俣内袋村」の小村として村名がみえ、屋敷数二、男一一・女九、牛一・馬一が記される。同一六年の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)にも「袋村内野川村」とあり、地侍一名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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