「南路志」所引の寺記によれば大同元年(八〇六)空海が草創した最初の寺で、空海は唐より帰国の途次、行当岬の
延久二年(一〇七〇)七月八日付の金剛頂寺解案(東寺百合文書)には「謹案旧記、件寺者、弘法大師祈下明星初行之地、智弘和尚真言法界練行之砌、天人大師手造薬師仏像、安置件嶺、不論男女輙不乱入之道場也、是以始自国宰至于庶民、為仰当寺仏法之霊験、各所施入山川田畠等也、仍任各施入本意、以件地利、備仏聖灯油、充堂舎修理、計其領知之年、漸経数百歳矣」とあり、すでに平安時代中期に空海自刻の薬師如来を本尊とする、真言宗にとっては重要な寺として確立していたことが知られる。前述の寺記は嵯峨・淳和両天皇の勅願所とされ、一〇世までの住持は宣旨により寺務にあたったと伝える。同解案に「寺四至者、東限海岸
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
高知県室戸(むろと)市元(もと)にある真言(しんごん)宗豊山(ぶざん)派の寺。龍頭山(りゅうとうさん)光明院と号する。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。四国八十八か所霊場26番札所。室戸岬の最御崎寺(ほつみさきじ)を東寺(ひがしでら)とよぶのに対し、西寺(にしでら)とよばれる。弘法(こうぼう)大師空海は唐より帰国後、当地で修行。807年(大同2)に当寺を創建した。空海自刻の薬師如来を本尊として、嵯峨(さが)、淳和(じゅんな)両天皇の勅願所となったといわれる。鎌倉末期には、当寺の住持は最御崎寺や京都槇尾(まきのお)西明寺(さいみょうじ)の住持を兼帯するなど勢力を広げ、寺領も広大であった。
戦国時代には土豪の香宗我部(こうそがべ)氏、ついで長宗我部(ちょうそがべ)氏の庇護(ひご)を受けた。1601年(慶長6)に入国した藩主山内氏は当寺を祈祷(きとう)所に定め、堂舎を再建したが、1899年(明治32)の大火で大量の古文書、文化財を焼失。現在、1327年(嘉暦2)作の板彫真言八祖像、木造阿弥陀(あみだ)如来坐像(ざぞう)(平安末)、銅造観音菩薩(かんのんぼさつ)立像、金銅密教法具、銅鐘(朝鮮鐘)などの国重要文化財がある。
[水谷 類]
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…空海修行の地で,その著《三教指帰(さんごうしいき)》に〈土州室戸崎〉と記されている。唐より帰国ののち,岬の山上に807年(大同2)建立したと伝えるのが最御崎(ほつみさき)寺(四国八十八ヵ所24番札所)で,行当岬近くにある金剛頂寺(26番札所)を西寺(にしでら)とよぶのに対し東寺とよばれる。海食洞の御蔵(みくら)洞,一夜建立の岩屋など,付近には空海にかかわる伝承を伝えるものが多い。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」