中国,清末の太平天国の乱に際し,軍費捻出を目的として制定された貨物通過税。釐金の名称は,従価100分の1(1釐)を課税することから出ている。刑部侍郎雷以諴(らいいかん)は,南京が陥落した1853年(咸豊3),揚州仙女鎮一帯の米商から,臨時戦費に当てるため捐金(えんきん)を徴発した。清朝政府もこれにならい,同年上海に釐局を設け,各地方にも兵餉(へいしよう)確保のために釐金の制を実施することを推奨した。その結果,55年に湖北,湖南,江西,56年に奉天,新疆,57年に安徽,福建,58年に広東,河南,陝西,山東,59年に山西,60年に貴州に行われ,70年代初頭までには全国で施行されるにいたった。この盛行は,釐金が当初中央政府と関係がなく,各省みずから徴収,運用できたため,地方督撫にとって重要な財源となったからである。
太平天国の乱が平定された後も釐金の制は継続された。釐金の種類は,発送地釐金(起釐・出産税),通過地釐金(行釐・過境税),到着地釐金(落地税・銷場税)の3種に分かれ,すべてが重課されたり,さらに行釐が局卡(きよくそう)(収税処)ごとに徴収されたりした。徴収方法も,釐金官みずからが徴収する散収のほか,郷紳による委任管理(紳辧)や商人による請負(包辧)などが行われ,それぞれに営利の源となった。また,課税対象も,一般貨物に課す場合と,茶,煙草,酒,砂糖,生糸,さらにアヘンに課す場合とでは税率が異なり,アヘンが最も高率であったが地方的差異も無視できない。このように複雑な通行税に対し,中国市場の拡大をねらう列強は強い批判を加え,58年の天津条約では輸出入正税(従価5%)以外に2.5%の子口税を納めれば釐金を免除することが定められた。次いで76年(光緒2)の芝罘(チーフー)協定(イギリスは批准せず)では開港場内の釐金を撤廃することとし,1902年の中英通商条約(マッケー条約)では,関税増徴の見返りに釐金を廃止することが規定されたが,実効はあがらなかった。
辛亥革命以後,民国政府も釐金制度の改革に取り組み,釐金の名称を改めて歳入費目上では貨物税とし,出産税または銷場税として課すべきこととした。また,16年には国税・地方税の区分を立てて釐金を国税に編入し,地方釐金局の名称も,統捐局,税務公所,捐局などと変えた。その後,関税自主権を回復するに従って廃止の方向にすすみ,31年に撤廃された。
執筆者:浜下 武志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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