釜屋村(読み)かまやむら

日本歴史地名大系 「釜屋村」の解説

釜屋村
かまやむら

[現在地名]両津市秋津あきつ

加茂かも湖南西岸にある。北は加茂村・歌代うたしろ村、南は潟端かたばた村・籠米ここめ村、西は長江ながえ村・下横山しもよこやま村。集落は加茂湖周辺台地上に広がる。貞治五年(一三六六)六月一八日源(本間)有直譲状写(本間文書)には「かまやのほう三分の二」を子の本間弥二郎に譲るとあり、応永元年(一三九四)六月二二日観仏譲状写(同文書)にも「釜屋ほう三ふん二」を子いや二郎に譲るとみえる。残り三分の一は吉井よしい(現金井町)の藍原氏の支配下にあったとも伝えられる。「佐渡名勝志」によれば、応永の頃、長江の名古屋氏が雑太本間氏の配下から独立して、釜屋は藍原氏と名古屋氏(長江殿)の入会地となったという。

慶長五年(一六〇〇)検地帳(秋津水総代文書)では本・見出の合計苅上高は二万九二八束七把苅。


釜屋村
かまやむら

[現在地名]浜坂町釜屋

諸寄もろよせ村の西に位置し、北は海(日本海)に面する。「二方考」に「此処の海辺さざひ、あわびの名所なり。いろいろの海草を沢山采るなり」と記されるように、古くから浅海での漁業が盛んであった。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「かまや」とあり、当地には「三郎ひやうへ殿」ほかが住していた。江戸時代の領主の変遷は芦屋あしや村に同じ。


釜屋村
かまやむら

[現在地名]御津町釜屋

山田やまだ村・加家かけ村の南、富島とみしま川の支流おお川の流域に位置し、西釜屋・東釜屋の二集落からなる。入浜式塩田の釜屋が建っていたので地名となったという。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)に村名がみえ、池田輝政による内検地高六石余、高五石余。正保郷帳では高五石余(すべて田方)で、「塩浜有」と注記される。天保郷帳では高二〇二石余。「西讃府志」によると高三三七石余、反別は三三町七反余、うち畑方九反余・屋敷一町四反余、年貢米一五五石余、家数一五三・人数六九九、牛一五。当村は低湿地にあり、古来塩屋賀茂しおやかも庄と称され土地はすべて塩田であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)地味が悪くなり、新田として再開発された。


釜屋村
かまやむら

[現在地名]篠山市今田町釜屋

下立杭しもたちくい村の南西、木津こつ村の東に位置し、なかほどを四斗谷しとだに川が南流する。南東の三本さんぼん峠を越えて三田藩領方面に通じる道がある。寛政一〇年(一七九八)下立杭村から分立して成立したという(今田町史)。「多紀郡明細記」に釜屋村とみえ、高四〇石余(山役・新開分を含む)、家別四三・人別二〇〇、持牛一・借牛一一、中竈一二口・南竈一三口・新竈一一口の陶器竈三ヵ所があり、溜池は秀岡池・和畑池・丸山まるやま池・伊賀谷池などで、ほか自普請持池は二三ヵ所。


釜屋村
かまやむら

[現在地名]山岡町釜屋

西流する小里おり川上流にあり、北は下手向しもとうげ村。村名は窯家からで、焼物生産の名残とする説もあるが、古い窯跡は発見されていない。慶長八年(一六〇三)以降近世を通じ旗本明知遠山領。慶長郷帳に「かま屋村」とあり、高四五六石余。正保郷帳では田方二七八石余・畑方一七八石余とある。村高は比較的大きかったが、年貢割付は「先規よりの荒高」として一六二石余が差引かれ、在高は二九〇石余になっている。三分の一以上の荒高は多すぎるが、原因は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android