鍾惺(読み)しょうせい

精選版 日本国語大辞典 「鍾惺」の意味・読み・例文・類語

しょう‐せい【鍾惺】

中国、明末の詩人。字(あざな)は伯敬。号は退谷。湖北竟陵の人。譚元春と「古詩帰」「唐詩帰」を編述し、竟陵派をおこし、擬古的な古文辞派に対して新風を吹きこんだ。著に「諸経図」「隠秀軒集」「名媛詩帰」「周文帰」などがある。(一五七四‐一六二五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鍾惺」の意味・わかりやすい解説

鍾惺
しょうせい
(1574―1625)

中国、明(みん)末の詩人。字(あざな)を伯敬(はくけい)、号を退谷(たいこく)といい、竟陵(きょうりょう)(湖北省天門県)に生まれる。1610年(万暦38)の会試合格のおり雷思霈(らいしはい)を師と仰ぎ、公安派の影響を受けた。山寺にこもって深幽孤峭(こしょう)と評される詩境を開き、同郷の譚元春(たんげんしゅん)と著した『詩帰(しき)』が一世を風靡(ふうび)するに及び、竟陵派の首魁(しゅかい)と目された。行人(こうじん)並びに陪都南京(ナンキン)の閑職にあって、その主張とする真詩を求めて山水に遊ぶ一方、自らを人から遠ざけたため、のち銭謙益(せんけんえき)からは詩妖(しよう)、鬼趣と酷評された。父の死により福建提学僉事(ていがくせんじ)を辞職、帰郷するおり武夷山(ぶいさん)に遊んだことが在任中の科挙不正ともども弾劾され、晩年は不遇で、『楞厳経(りょうごんきょう)』に沈潜するに至った。その死は五戒を受けて断残と名のって3日後の1625年(天啓5)6月21日である。『隠秀軒集』32巻がある。

[大塚秀高]

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改訂新版 世界大百科事典 「鍾惺」の意味・わかりやすい解説

鍾惺 (しょうせい)
Zhōng Xīng
生没年:1574-1624

中国,明代末期の詩人,文芸評論家。字は伯敬。湖北省竟陵(天門)の出身で,万暦38年(1610)の進士。同郷の譚元春とともに《古詩帰》《唐詩帰》を編み,古来の注釈はいっさい無視して,独自の詩観による鑑賞と批評縦横に加えた(竟陵派)。その体当り的な寸評一種の暗さを帯びた感受性は当時の読者を魅了して,たちまちベストセラーになって版を重ね,多くの模倣書を生んだ。個人の文集として《隠秀軒集》33巻がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鍾惺」の意味・わかりやすい解説

鍾惺
しょうせい
Zhong Xing

[生]万暦2(1574)
[没]天啓4(1624)
中国,明末の詩人。竟陵 (きょうりょう。湖北省天門県) の人。字,伯敬。号,退谷。万暦 38 (1610) 年進士に及第,福建提学に進んだとき,親の喪にあって帰郷し,そのまま死んだ。同郷の譚元春とともに古詩および唐詩を選んで独特の批評を加えた『詩帰』 (51巻) を著わした。本書は清代に入って原詩を誤読した点などをあげつらわれたが,当時は大流行をみせ,いわゆる「竟陵派」の盛行をみるにいたった。帰有光らの「唐宋派」,袁宏道らの「公安派」とともに,当時の文壇に流行していた擬古主義に対抗し,詩は感情の率直な表現を重んじるべきだと主張した。作品は『隠秀軒集』に収められる。

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世界大百科事典(旧版)内の鍾惺の言及

【竟陵派】より

…中国,明代末期(16世紀末~17世紀初め)に活躍した文学者のグループで,鍾惺と譚元春を代表者とする。ともに湖北省竟陵の出身。…

【中国文学】より

…これらに反対して宋詩のすぐれた点を見なおし,その長所を取り入れるべきだと論ずる人もあった。袁宏道(えんこうどう)(中郎)を中心とする公安派と,鍾惺(しようせい)らの竟陵(きようりよう)派とである。この論争は清朝まで尾を引く(日本では格調派と性霊派とよばれる)。…

※「鍾惺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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