デジタル大辞泉
「長三洲」の意味・読み・例文・類語
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ちょう‐さんしゅうチャウサンシウ【長三洲】
- 幕末・明治の漢学者、書家。豊後国(大分県)の人。本姓は長谷。名は炗(ひかる)。字(あざな)は世章。通称富太郎。広瀬淡窓に学び、広瀬旭荘の大坂の塾の都講となり、のち尊王運動に奔走。長州藩に入って奇兵隊に加わり、慶応二年(一八六六)、西郷隆盛と会し、薩長連合の基礎をつくる。戊辰戦争では長岡、会津に転戦。維新後、木戸孝允の信任を受けて権大史となり、明治五年(一八七二)の学制公布に尽力し、「新封建論」「復古原論」などを著わす。のち文部省学務局長、東宮侍書などを歴任。また書に巧みで、顔真卿の書風を慕う。詩は淡雅で、淡窓の衣鉢を継ぐとされる。著に「楷書天地帖」「三洲居士集」など。天保四~明治二八年(一八三三‐九五)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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長三洲
没年:明治28.3.13(1895)
生年:天保4.9.22(1833.11.3)
幕末明治の漢詩人。名は〓,字は世章,秋史,通称は富太郎,光太郎。三洲は号。豊後国(大分県)日田の医者で漢詩人であった長梅外の長男。父の薫陶を受け,のちに広瀬淡窓の咸宜園に学んで頭角を現した。18歳で淡窓の弟旭荘の大坂の塾に招かれて塾長を務めたが,次第に尊王攘夷論に傾倒するようになり,長門藩に仕えて奇兵隊に加わり,各地を転戦した。木戸孝允の知遇により新政府に出仕,権大史,大学少丞,学務局長兼侍読などを歴任し,明治10(1877)年に致仕。その後は詩文書画を楽しむ自適の生活を送った。木戸孝允の奏議の文章は多く三洲の手になるという。『三洲居士集』などがある。<参考文献>『明治漢詩文集』(明治文学全集62巻)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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長三洲
ちょうさんしゅう
(1833―1895)
幕末から明治中期にかけての漢学者、書家。漢詩、南画でも非凡であった。豊後(ぶんご)国(大分県)日田郡馬原村に生まれる。名は炗(ひかる)、字(あざな)は世章、秋史。通称富太郎、光太郎。三洲は号。15歳で広瀬淡窓(たんそう)の門に入り、秀才の聞こえ高く、のち大坂に出て淡窓の末弟旭荘(きょくそう)の塾長となった。その後長州の奇兵隊に加わり、攘夷(じょうい)を実行した。1868年(慶応4)戊辰(ぼしん)戦争にも参加して功があった。明治になって東京に出て明治政府の文教面の高官を歴任した。著書に『楷書天地帖(かいしょてんちちょう)』『行書孤憤帖(ぎょうしょこふんちょう)』、『三洲居士集』五冊など。
[古川哲史]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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長三洲 ちょう-さんしゅう
1833-1895 幕末-明治時代の漢学者,書家。
天保(てんぽう)4年9月22日生まれ。長梅外の長男。広瀬淡窓の門にまなぶ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の奇兵隊にはいるなど尊攘(そんじょう)運動にしたがう。維新後,文部省,宮内省などにつとめ,明治天皇に書道を指導。明治28年3月13日死去。63歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。本姓は長谷。名は炗(ひかる)。字(あざな)は世章,秋史。著作に「三洲居士集」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の長三洲の言及
【漢詩文】より
…ついで現れた[森春濤](しゆんとう)・[森槐南](かいなん)父子は婦女子の恋愛の感情を詠んだ香奩(こうれん)体の詩や,袁枚(えんばい),趙翼,張船山(張問陶),王漁洋(王士禎)らの清詩をさかんに鼓吹し,本田種竹らとともに明治詩壇(ことに後期)における清詩の流行をもたらした。槐南の門からは[野口寧斎]が出て詩名をうたわれたが,当時これらの人々と独立して活躍していたのが[成島柳北],長三洲らである。また1894年に夭折した[中野逍遥]も強烈な恋愛感情を漢詩に託した詩人として注目される。…
※「長三洲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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