長浜城跡(読み)ながはまじようあと

日本歴史地名大系 「長浜城跡」の解説

長浜城跡
ながはまじようあと

[現在地名]隼人町小浜・野久美田

鹿児島湾の最北部東側に面する長浜港に接した、標高一四九メートルを最高地点とする独立したシラス山地を主とする山城跡。しん城・生別符おいのびゆう城ともいう。日向野々美谷ののみたに(現宮崎県都城市)を居城としていた樺山長久は大永元年(一五二一)島津勝久(当時忠兼)により大隅堅利かたしり小浜おばまなどの所領を与えられて日向を離れ、同年五月一〇日堅利小田おだ屋敷に移った(樺山氏系図など)。同五年、樺山氏は本田氏の一族の争いに巻込まれ所領を奪われそうになった(島津国史)。このため九月二日長久の子信久(広久)は小浜に「生別符城」を築いたという(樺山氏系図)。なお「樺山玄佐自記」は同日信久が生別符城を奪い取ったとする。同六年信久は相州家島津忠良(日新)方となり、忠良は当城に来て信久の子で当時一四歳の善久(のち玄佐)養子(島津貴久の義弟)にした(同書)

長浜城跡
ながはまじようあと

[現在地名]沼津市内浦長浜・内浦重須

内浦長浜うちうらながはま集落の西方、内浦重須うちうらおもすとの境、駿河湾奥に突き出した標高約三二メートルの岬上にある。戦国期に甲斐武田氏との海上戦に備えて小田原北条氏が築城した。国指定史跡。天正七年(一五七九)一一月七日北条氏は安藤良整の代官と木負きしよう百姓中に対して伊豆沿岸の備えとして「長浜ニ船掛庭」を普請することを命じている(「北条家朱印状写」相磯文書)。同月一七日には北条水軍の統率者梶原景宗に対して未納となっている西浦番銭の徴収を厳密に行うよう命じ(「北条家朱印状写」紀伊続風土記)、同一二年一月二〇日には西浦船方番銭を景宗の所へ届けるよう命じている(「北条家朱印状写」同書)。船方番銭とは北条水軍を維持するために賦課された公事で、永禄九年(一五六六)閏八月七日の木負小代官・百姓中宛の北条氏康朱印状(相磯文書)には「梶原番銭」とみえる。

長浜城跡
ながはまじようあと

[現在地名]長浜市公園町・港町など

湖岸にあるほう公園が本丸跡地とされ、その南と東に広がる。もとは今浜いまはま城とよばれた。文亀元年(一五〇一)六月一七日、京極材宗はかねてから対立していた京極高清を今浜城に攻めるが失敗。高清はこの前後には老臣上坂氏の居城今浜城にいたと思われる。大永三年(一五二三)には、浅井氏・三田村氏らの「牢人衆」は京極高清や上坂家信の籠る今浜城を攻め敗走させている(江北記)

天正元年(一五七三)浅井氏が滅亡すると、織田信長は浅井氏攻略に最も戦功のあった羽柴秀吉に湖北の地と小谷おだに(現東浅井郡湖北町)を与えた。小谷城に入った秀吉は翌二年頃から今浜に城地を求め築城を開始し、同三年か四年に今浜城に入城し、地名を長浜と改めた。築城にあたって坂田郡平方ひらかた浅井あざい下八木しもやぎ(現東浅井郡びわ町)に宛てて「今はま」へ人夫を徴発する判物が出されている(年未詳六月六日「羽柴秀吉下知状」川合文書など)

長浜城跡
ながはまじようあと

[現在地名]高知市長浜

長浜川の左岸、小高い山の上に築かれた山城。城主は本山茂辰の家臣大窪美作守と伝える。

土佐平野に進出した本山氏が、浦戸うらど城とともに浦戸湾対岸に勢力を伸ばしてきた長宗我部氏に備える支城とした。しかし永禄三年(一五六〇)長宗我部国親軍の攻撃に遭い落城している。この合戦が長宗我部元親の初陣といわれる。「土佐物語」は「式部少輔(本山茂辰)は日出野の西の方に備へ、両軍互に弓鉄砲を進めて、鬨の声を挙ぐる程こそあれ、敵味方三千五百余騎、一度に颯と掛合ひて、思ひ思ひに相戦ふ。半時計切合ひて、互に勝鬨を挙げ、四、五町が程両方へ引分れ、敵味方を見渡せば、両陣過半滅びて、死人戦場に充ち満てり」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「長浜城跡」の解説

ながはまじょうあと【長浜城跡】


静岡県沼津市内浦重須にある城跡。波が穏やかな長浜地区の海に突き出た半島に位置し、戦国時代、駿河に侵攻した武田軍に備えるために北条水軍の拠点の一つとして築城された。1579年(天正7)には長浜に軍船を停泊させる港が造られ、北条水軍の将である梶原氏が配属されている。地形を巧みに利用し、主郭は標高30mにあり、小規模な郭(くるわ)が数多くある。城への階段を上ると祠(ほこら)があって、半島先端部に一の郭を置き、半島付け根に向かって二の郭、三の郭を、南側に出郭を配置した縄張りとなっている。一の郭には石垣が一部残っている。山側は土塁や堀切りで防備され、陸・海両方に対応した構造が特徴的である。1580年(天正8)に武田水軍が浮島ヶ原(現在の沼津市西部から富士市東部にまたがある低湿地)に陣を張った際には、長浜から北条水軍が出撃して海戦が起きた(駿河湾の海戦)。武田氏滅亡後は敵対した豊臣氏に備えたが、韮山(にらやま)城や山中城が落城すると長浜城は廃城となった。1988年(昭和63)に国の史跡に指定され、2002年(平成14)に追加指定があった。JR東海道本線沼津駅から伊豆箱根バス「城下橋」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android