長谷郷
はせごう
美里町長谷宮と伊都郡かつらぎ町新城を郷域とした高野山領。「続風土記」の伊都郡の項に当郷について「伊都・那賀両郡に亘り、其属村当郡中村・新城二村とす。其那賀郡にあるを谷口・馬場・宮三村とす。総て五箇村」とある。
長谷の名は寛弘元年(一〇〇四)九月二五日の太政官符案(前田家本「高野寺縁起」所収)に、平惟仲と高野山との係争地の一つとして記され、郷名は同五年一〇月二七日付の金剛峯寺帖案(金剛峯寺雑文)に「志賀・長谷・毛無原・阿手河等郷」とみえる。
長谷郷
はせごう
「和名抄」所載の郷。訓は高山寺本に「波世」とあるので、ハセが妥当。ちなみに大和国城上郡の長谷郷の訓は「波都世」(高山寺本)、「波都勢」(東急本)とあり、ハツセと読む。当郷に関する史料は乏しく、故地の比定は困難だが、「三州地理志稿」は「井立川北有長屋村、東西長江村恐是」とし、現鼬川と常願寺川の間に位置する長屋村(現富山市)、東長江村・西長江村(現同上)の地域に比定する。
長谷郷
はせごう
筑後川支流の秋光川が現三養基郡基山町大字園部の平野部を流れる付近に長谷川と古来からよびならわされた地域があり、そこに鎮西隈・中隈・脇田の小名集落がある。この園部付近一帯が長谷郷の郷域に比定される。
郷名は「肥前風土記」にはなく、「和名抄」に「長谷」とみえるが、訓を欠く。
長谷郷
はつせごう
「和名抄」高山寺本に「波都世」、刊本に「波都勢」と訓ずる。「大和志」は「方廃村存」として現桜井市大字初瀬に比定。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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