長遠寺(読み)ぢようおんじ

日本歴史地名大系 「長遠寺」の解説

長遠寺
ぢようおんじ

[現在地名]尼崎市寺町

江戸時代のてら町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和三年(一六一七)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは風呂辻ふろつじ辰巳たつみ市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永二年(一七〇五)の大尭山縁起によれば、観応元年(一三五〇)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院一六坊を数えたという。歴代住持のうち五世日了が本山一二世となるなど、京都本国(本圀)寺末の有力寺院の一つであった。開基の地についてはななまつで、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄一二年(一五六九)三月の織田信長軍勢による尼崎四町の焼打ちの際には当寺と如来によらい院だけが戦火を免れたという(細川両家記)

長遠寺
じようおんじ

[現在地名]若草町鏡中条

鏡中条かがみなかじよう集落のほぼ中央に位置する。日蓮宗。恵光山と号し、本尊十界曼荼羅。戸田とだ(現甲西町)に所在した加賀美遠光開基の真言宗寺院を前身とすると伝える。弘安二年(一二七九)住持大心房が日蓮に帰依して久成院日心と改め、改宗するとともに開山となった(寺記)。のち現在地に移ったが、寺伝によれば日蓮の逗留説法の霊地を守護するためであるという。永禄年間(一五五八―七〇)に武田氏の家臣五味土佐守長遠により、新たな堂宇が造営されたという。また武田氏からも寺領・境内地の寄進を受けたと伝える。天正二〇年(一五九二)二月一四日、加藤光政から境内地一千六七一坪の坪銭を免除されている(「加藤光政身延山末寺屋敷免許状」久遠寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長遠寺の言及

【寺内町】より

…北陸地方では金沢,城端,井波,古国府(富山県高岡市)の真宗寺院があり,16世紀末には町場化がすすんだ。以上は真宗系寺内町であるが,これと対立した日蓮宗では摂津尼崎に本興寺,長遠寺寺内町がみられる。寺内町の建設は寺院側が主導権をもったもの,有力土豪の主導によるもの,惣中の主導によるもの,と分かれている。…

※「長遠寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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