改訂新版 世界大百科事典 「門司関」の意味・わかりやすい解説
門司関 (もじのせき)
古代から中世にかけて現在の北九州市門司区の甲宗八幡宮あたりにおかれていた海関。関門海峡をへだてて赤間関と向かい合い,本州と九州を最短距離で結ぶ位置にあり,また西九州から海路瀬戸内,畿内地方へ向かう船がかならず通る場所であった。746年(天平18)以来東九州沿岸から荷を積んで難波へ行く船は,過所(通行許可書)を持っていてもかならず門司関を通ることになり,九州から瀬戸内を経て畿内へ行く船荷を管理下におくこととなった。しかし796年(延暦15)には東九州の船は再び管理を離れている。関の管理には豊前国があたり,関司を置き,関別当を責任者とした。過所の発行は大宰府が行い,過所をもって門司関を通る私船は勘過料(通行税)を支払っていたが,12世紀にはその支払を免除されるものが出ている。関の維持のために平安時代のある時期から門司関領田が設けられ,一説によるとその面積は280町余であったという。平安末のいわゆる源平の争乱では平氏の拠点となり,関別当も平氏与党になったため,平氏滅亡後関別当職は鎌倉幕府の支配下に入り,14世紀初頭には北条氏被官の下総氏が関を管理している。鎌倉幕府滅亡後も下総氏は関を握り,門司を名字とするようになった。門司氏は南北朝後期に豊前守護となった大内氏の被官となり,以後大内氏の九州への橋頭堡の役をはたし,大内氏滅亡後は毛利氏被官として大友氏に対抗した。
執筆者:木村 忠夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報