間・間院(読み)くしま・くしまいん

日本歴史地名大系 「間・間院」の解説

間・間院
くしま・くしまいん

近世に福島ふくしま院とよばれた地域、すなわち現串間市のほぼ全域をさした中世の地名で所領単位でもあった。「島津国史」の注記によれば、櫛間は当初「久之末」とよんだが、後世に「不久之末」と訛り福島と記すようになったといい、中世の確実な史料では櫛間・櫛間院と記されることが圧倒的に多い。

建久図田帳では島津庄寄郡のうち宮崎郡内として「櫛間院三百丁」とみえ、地頭は島津忠久であった。なお応永二八年(一四二一)二月二七日の建久図田帳追記でもこの田数は変わっていない。忠久は建仁三年(一二〇三)比企氏の乱に縁座して島津庄日向方・大隅方の地頭職を没収されており(「吾妻鏡」同年九月四日条)、当院も北条氏の手に移ったものと考えられる。安貞二年(一二二八)の検注の結果をまとめた同三年二月日の櫛間院田畠注進目録(野辺文書)によると、総田数は三八七町六反二丈、うち荒田が五二町(常荒六町七反・年荒四五町三反)、現作田は三三五町六反二丈、ただし現作田のうちに損田九三町九反中が出たため、年貢を賦課できる得田は二四一町七反一丈中であった。また野稲畠三段の記載があり、陸稲が栽培されていた。文永五年(一二六八)三月二五日の櫛間院年貢注文(同文書)によれば当院の年貢は定田三二七町一反四丈に対して丁別として六五貫四三六文(反別二〇文)、さらに得田二六一町七反二丈には面付として飫肥南おびなん郷の年貢賦課(反別三九文)に準拠して一〇二貫七八文が賦課され、桑代一三貫一二二文、色革三〇枚代一五貫文(反別五〇〇文)と合せて総計は一九五貫六三六文となり、これを西方・東方がともに九七貫八一八文ずつ負担している。またこのほか西方には一方年貢として色革一〇枚、夏毛の行縢革の代銭三貫文、沓一足の代銭五〇〇文、甘葛一瓶子、四月と一二月に雑紙五〇帖ずつが賦課されており、櫛間院は東方と西方の地域区分があったことも判明する。

当院の地頭職は元亨三年(一三二三)飫肥南郷地頭の家人であった河野大輔法橋観睿が、元弘元年(一三三一)には同大弐法眼通睿が相伝し、鎌倉幕府が崩壊した翌建武元年(一三三四)三月二一日には野辺久盛が勲功の賞として当院地頭職を拝領したという(「櫛間院地頭職相伝系図」同文書)。また佐々木系図によると、同年近江源氏の流れをくむ佐々木加地太郎信実の子重秀が「日州福島」に下向したという。

建武二年五月一一日、建武政権は中宮子内親王)領であった当院の雑掌弘成の訴えにより、薩摩・大隅国守護島津貞久に対して、下地を引渡さず城郭を構えて抵抗する野辺盛忠(久盛の子)の鎮圧を命じている(「雑訴決断所牒案」比志島文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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