現在の和歌川が、紀ノ川の本流であった古代、河口に広がる景勝の地をいった。南東は
古代、和歌浦には玉津島頓宮が置かれ、天皇の行幸がしばしばあった。「続日本紀」神亀元年一〇月一六日条の聖武天皇の行幸の記事には「又、詔曰、登山望海、此間最好、不労遠行、足以遊覧、故改弱浜名、為明光浦、宜置守戸、勿令荒穢、春秋二時、差遣官人、奠祭玉津島之神、明光浦之霊」とあり、山上からの眺望の素晴らしさから天皇は明光浦と名付けている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
和歌山市南部の海浜。近年「わかうら」ともよばれる。聖武(しょうむ)天皇行幸の際に山部赤人(やまべのあかひと)が詠んだ「若の浦に潮満ちくれば潟をなみ……」(『万葉集』巻6)で知られた古くからの景勝地。丘陵をなす雑賀(さいか)山の南麓(なんろく)、紀ノ川旧河道の和歌川河口に臨む砂浜で、赤人の歌にちなんで片男波(かたおなみ)とよばれる砂嘴(さし)が南に長く延び内湾を抱いている。古書に若の浦、弱浜(わかのうら)、明光浦(めいこううら)などとも書かれるが、形成されたばかりの若い浜辺の意味である。
湾を隔てて名草(なぐさ)山とその中腹の紀三井(きみい)寺を遠望する風景は古くから都に知られ、和歌浦の一角にあり、かつては島で現在は陸続きになっている玉津(たまつ)島に鎮座する玉津島神社は聖武天皇をはじめ貴族の来遊が多く、歌会の歌が『万葉集』『新古今集』などに収録されて歌枕(うたまくら)の地となった。国指定名勝。
玉津島東方には観海閣のある小島があり、玉津島とは三断橋で結ばれ、玉津島から片男波へは石造アーチ型の不老橋が架かる。周辺には和歌祭で知られる東照宮や天満神社がある。湾内は和歌ノリの養殖地で、和歌浦漁港ではかまぼこ製造が行われている。大正初年ころから和歌浦の西方、雑賀山が海に臨む地域が新和歌浦として観光開発され、現在、旅館も新和歌浦に移り、和歌浦は旧和歌浦ともよばれ、名所の名残(なごり)をとどめるばかりになった。新和歌浦のさらに西方の雑賀崎周辺を奥和歌浦とよんでいる。新和歌浦・雑賀崎は瀬戸内海国立公園に含まれ、雑賀崎は指定特別地域として保護される。
[小池洋一]
和歌山市の南部,和歌川河口一帯の海辺で,古くより景勝の地として著名。河口には砂嘴(さし)の片男波(かたおなみ)が長く延び,かつては海中の島であった玉津島には和歌の神として信仰された玉津島神社が鎮座する。724年(神亀1)聖武天皇が行幸,風光を賞して名を〈明光浦〉と改め,玉津島神をまつった(《続日本紀》)。このとき従駕した山部赤人の〈若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る〉(《万葉集》巻六)はよく知られ,片男波の名もこの〈潟を無み〉によるという。歌枕で,〈和歌〉から歌道や若さに意をかけて作歌されることが多い。熊野・高野参詣が盛んであった時代には,その途次,当地を訪れて詩文を残した人々が少なくない。中国杭州の西湖六橋を模倣した三断橋が妹背山という小島との間に架かり,紀州藩主徳川頼宣が亡父家康の霊をまつった東照宮や,紀三井寺の拝殿として建築した観海閣などがある。
明治末期に西に道路開発がなされて以来,観光地化された新和歌浦は,章魚頭姿(たこずし)山が海に迫り,さらに西方の雑賀(さいか)崎一帯は奥新和歌浦といい,結晶片岩の断崖が続く荒磯である。なお行政上の地名である和歌山市和歌浦は〈わかうら〉という。
執筆者:重見 之雄+渡瀬 昌忠
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