中国の軍人、政治家。山西(さんせい/シャンシー)省五台(ごだい/ウータイ)県の人。1909年(明治42)日本の陸軍士官学校歩兵科を卒業。辛亥(しんがい)革命に参加。以後、民国時代を通じて事実上の山西王国を築いた。とくに1917~1927年、1932~1937年には「山西モンロー主義」を唱え、風俗改革、工鉱業振興に努めたが、農民にとって切実な土地問題には反動的政策に終始した。日中戦争で日本軍、八路軍、国民党軍の三者に地盤を崩され、第二戦区司令長官に就任。1949年春、人民解放軍が閻の拠点の太原(たいげん/タイユワン)をおとすと、南京(ナンキン)、広州(こうしゅう/コワンチョウ)へ逃げ、1949年6月国民政府の行政院長についたが、まもなく台湾へ逃れ、いくつかの名誉職についた。
[加藤祐三]
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中国,山西軍閥の統領。山西省五台県の生れ。字は百川。日本留学中に同盟会に加入,辛亥革命に参加して山西都督となる。以後独自の建設計画を遂行しつつ山西を地盤に独立した政治勢力を築き,〈山西王〉とよばれた。1927年北伐に協力したが,30年馮玉祥(ふうぎよくしよう)らと反蔣戦争を起こし,失敗。以後蔣介石の〈消極抗日,積極反共〉と歩みをともにし,抗日戦争後ともに内戦を起こす。49年太原から台北へ逃れた。
執筆者:石田 米子
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1883~1960
民国時代の軍閥。山西省五台県の人,日本士官学校卒業。民国38年間を通じ事実上の山西王で,省内の地方自治制を強化した山西モンロー主義を唱えた。1949年6月広州で行政院長となり,50年3月台北で辞任した。
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…同年末の張学良の〈易幟(えきし)〉によって蔣介石による全国統一が完成するが,それは国民党の新軍閥化とむすびついていたのであって,南京国民政府は非北洋系軍閥の寄合所帯となったのである。西北の馮玉祥,山西の閻錫山(えんしやくざん),広西の李宗仁,広東の李済深がそれで,彼らは1929‐31年にかけて反蔣戦争を発動し,広東独立をおこなった。英米が蔣介石をおしたのに対し,反蔣派は日本にちかづいた。…
…北洋軍閥の支配時期は1000回をこえる大小の内戦が行われた時代であった。かくして,北洋支配を打倒するための北伐,国民革命の開始されるころの形勢は,東北を地盤に北京を扼(やく)する張作霖を中心に,両湖(湖南・湖北省)の呉佩孚(ごはいふ),江南の孫伝芳,山東の張宗昌,山西の閻錫山(えんしやくざん),陝西の馮玉祥といったところが華中・華北に割拠するという状況だったのである。軍閥
[北伐]
この間,中国は第1次世界大戦の協商国側に参戦して戦勝国の一員となった。…
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