太原(読み)タイゲン

デジタル大辞泉 「太原」の意味・読み・例文・類語

たいげん【太原】

中国山西省省都黄河支流汾河ふんが東岸にあり、製鉄機械工業が盛ん。代に建造された正方形城壁が残る。人口、行政区256万(2000)。タイユワン

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精選版 日本国語大辞典 「太原」の意味・読み・例文・類語

たいげん【太原】

  1. 中国、山西省の省都。省中央部、黄河の支流汾河(ふんが)の左岸に位置する。春秋時代から晉陽として知られた。陽泉の石炭・鉄を用いて、製鉄・機械工業がさかん。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「太原」の意味・わかりやすい解説

太原
たいげん / タイユワン

中国、山西(さんせい)省中央部にある地級市で、同省の省都。汾河(ふんが)の中流、太原盆地の北部に位置する。6市轄区と陽曲(ようきょく)、清徐(せいじょ)、婁煩(ろうはん)の3県を管轄し、1県級市の管轄代行を行う(2016年時点)。人口369万7000(2014)。秦(しん)代に太原郡が置かれ、漢代には并州(へいしゅう)も加えられ、以後この両地名でよばれた。太原郡府の治所はかつての陽曲県に置かれ、陽曲県を一般に太原と称していたが、太原の名をもつ県は別に陽曲県の南西(現在、晋祠(しんし)のある付近)にあった。また、いまの陽曲県は新しく設けられた県である。

 太原盆地は汾河の中流にあって四周を山地に囲まれて孤立してはいるが、南は汾河を経て黄河(こうが)流域でもっとも古く文明の発達した関中(かんちゅう)、中原(ちゅうげん)の地へ通じ、北は長城線に近接し、東は太行(たいこう)山脈を越えて華北平原に進出できるという位置にある。このため華北平原から黄河中流域にかけてもっとも政治地理的に重要な地域の一つであった。西周初め、成王の弟叔虞(しゅくぐ)がここに封ぜられ晋(しん)国を建て、東の斉(せい)(現在の山東省)とともに周室を補佐した。その後、北方に戦乱があるときには、しばしば中央に対する反対勢力の拠点ともなった。近代においても軍閥閻錫山(えんしゃくざん)の「山西モンロー主義」は有名である。

 農業は、寒冷な気候ながら太原盆地の平坦(へいたん)な地形と肥沃な土壌を有し、汾河の分流を利用した灌漑(かんがい)も行われ、古代から重要な生産地とされてきた。山地を利用した牧畜業も発達している。また古くから商業が発達し、盆地南部の汾陽(ふんよう)とともに山西商人を輩出した地域であった。工業は中華人民共和国成立前には小規模な軽工業しか存在しなかったが、現在は省内の豊富な資源を利用する重工業がこれに加わり、工業都市として発達している。石太線(石家荘(せきかそう)―太原)、太焦線(太原―焦作(しょうさく))、太中銀線(太原―中衛(ちゅうえい)―銀川(ぎんせん))、同蒲(どうほ)線(大同(だいどう)―華山(かざん))など、鉄道が東西南北へ通じているほか、市南東部の太原武宿国際空港からは国内外の各都市への航空路も開かれており、交通上でも省の中心となっている。

 市の周囲には名勝・旧跡が多い。天竜山石窟(てんりゅうざんせっくつ)は北朝期から開削されたもので、大同市雲崗(うんこう)のそれに匹敵する価値をもつ。そのほか開化寺、大仏寺など北朝仏教の足跡を残す寺院も多い。晋祠は周代の叔虞を祠(まつ)ったもので、聖母殿をはじめ各代の多くの建造物が残り、地域第一の名所となっている。

[秋山元秀・編集部 2017年10月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「太原」の意味・わかりやすい解説

太原 (たいげん)
Tài yuán

中国,華北地区,山西省の省都。省の中央部にあり,汾河に沿う。太原盆地の北端にあたり,同蒲(大同~孟),石太(石家荘~太原),太新(太原~新郷)などの鉄道の交点にあたる,山西省の政治,経済,文化,交通の中心。陽曲,清徐,婁煩の3県を管轄する。旧石器時代中期以来仰韶(ぎようしよう)・竜山期の遺跡もあり,陶唐氏(帝尭)の拠点だったという伝説もある。戦国時代になると秦は荘襄王4年(前246)太原郡を置き,晋陽(今の太原市南西晋源鎮)を郡治とした。漢の文帝のとき太原国となり,のち郡に復した。南北朝期にも国または郡がおかれ,隋代には一時幷州となり,また太原郡に改められた。唐の高祖が独立の旗をあげたのが,この地であったので,北都として重視し,723年(開元11)太原府を設置し,治所を太原(今の市の南西部の晋源鎮)とした。この地はまた北方の突厥(とつくつ)に対する重要な軍事拠点であり河東節度使の治所であった。五代にかけては北京とされ,五代末北漢の国都であった。宋代幷州と改め,陽曲(今の太原)に州治を移し,その後また太原府となり,河東路の治所であった。元代は太原路(のち冀寧路と改称),明代以降また太原府となり,明代は山西布政使が駐在し,清代は山西省の省会であった。

 県名は秦代以来晋陽と名づけられ,汾水西岸に立地していた。南北朝の北斉のとき,汾水東岸にも囲郭都市をつくり,州郡治を旧城(西城),県治を東城に移し,のち西城内に晋陽県のほか竜山県を新設し,さらに隋代には竜山県を晋陽県,晋陽県を太原県と改称した。唐代には東・西両城の中間に汾河両岸にまたがる中城をつくり,三つの囲郭都市が並んだ。その総周は約40里あったという。宋代に晋陽・太原両県を一本化し平晋と改名,明代太原の名に復した。1914年晋源と改名,51年廃県,1927年に設置されていた太原市に編入された。解放前は山西軍閥の閻錫山(えんしやくざん)の拠点とされ,若干の兵器工場などが作られていたが,解放後大型製鉄所,西山炭鉱のほか機械,化学,建築材料,紡織,食品加工など各種の工業が発展している。面積6988km2(うち市部1460km2),市部人口256万(2000)。また山西大学や科学研究機関も多い。

 山西省博物館は市内南東隅の文廟の中にあり,建築物そのものが金代の建築(ただし清代に移築)にかかり,大成殿をはじめ堂宇棟をつらね,収蔵品も殷代の青銅器,戦国期の戈をはじめ貴重なものが多い。なお博物館第二部は純陽宮に展示されている。市の南西25kmの瓮山(おうざん)山麓の晋祠は北魏の建築で,周の武王の子叔虞をまつるが,晋水の源流がここに湧き出,唐太宗の筆になる石碑,宋代建築の粋といわれる聖母殿と神像群,同じく北宋の金人台などの文化財がある。そのほか市の近郊には明代の双塔寺,東魏より唐にかけて開削された天竜山石窟,北斉の6世紀半ばに建築された開化寺連理塔,13世紀元初の竜山石窟(道教遺跡),そのほか奉聖禅寺,崇善寺,清真古寺,など多くの由緒ある文化財が残されている。
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百科事典マイペディア 「太原」の意味・わかりやすい解説

太原【たいげん】

中国,山西省の省都。汾水東岸にあり,同蒲(大同〜孟【げん】),石太(石家荘〜太原),太焦(太原〜焦作)などの鉄路の交差点で,中国の主要重工業都市の一つ。石炭を豊富に産し,製鋼,製紙,セメント,紡績業などが行われ,商業も盛ん。民国時代閻錫山が山西モンロー主義を標榜(ひょうぼう)してこの地に割拠,産業を興し,軍備を整えた。春秋時代から晋陽と呼ばれ史跡が多い。郊外に山西大学がある。284万人(2014)。
→関連項目山西[省]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「太原」の解説

太原(たいげん)
Taiyuan

中国山西省の省都。春秋時代末期に造営。晋陽と呼ばれた。戦国時代の趙(ちょう)の要地。秦以後太原郡,後漢以後并州(へいしゅう)の治所。唐朝創業の地。五代の後唐(こうとう),後晋(こうしん),後漢(こうかん)もここに興る。宋はこれを破壊し,その北東に今の太原をつくった。現在は工業都市として発展している。

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旺文社世界史事典 三訂版 「太原」の解説

太原
たいげん
Tàiyuán

中国山西省中部にある同省の省都
戦国時代の趙 (ちよう) の国都で,秦以後太原郡,後漢 (ごかん) 以後幷州 (へいしゆう) の治所。唐では王業創始の地として重んじたが,宋はここに都した北漢を滅ぼすと徹底的に破壊し,新たに今の太原を建設。現在は製鉄・機械工業が盛ん。

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