日本歴史地名大系 「闘鶏神社」の解説
闘鶏神社
とうけいじんじや
〔創祀・沿革〕
社伝によれば允恭天皇八年創祀といい、「続風土記」は熊野別当一八代湛快のとき、熊野三所権現を勧請したと記す。湛快の子湛増(二一代熊野別当)は当社付近に坊舎を構えたと伝え、以降熊野別当家の一流(田辺別当家)が代々当地に在住、当社を管掌したと考えられる。湛増の田辺在住は、「吉記」承安四年(一一七四)九月二八日条に熊野参詣の道程を記して「着田辺湛増法眼房」とみえることにより確認される。熊野別当家は「尊卑分脈」によれば藤原師尹の流れをくみ、湛増は実は源為義の子で妻は源頼朝の叔母にあたるという。「平家物語」巻四(源氏揃)によれば、源行家が諸国の源氏と連絡をとり蜂起の準備を進めていることを知った湛増は、自分は平氏に恩ある身だとして一千余騎を引具して源氏方の那智新宮を攻めている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報