阿坂城跡(読み)あざかじようあと

日本歴史地名大系 「阿坂城跡」の解説

阿坂城跡
あざかじようあと

[現在地名]松阪市大阿坂町 桝形

大阿坂おおあざか町の西方、標高三〇〇メートル余の尾根筋に南・北二つの郭跡が残る。たか城・からたち城とともに国指定史跡。「鷲見家譜」文和元年(一三五二)一〇月一三日の文書に「阿坂城同中村口」とみえる。

「南方紀伝」応永二二年(一四一五)起春の条に、「伊勢国司発乱先、北畠俊康卿依属京都、取其城坂内、俊康在京都油小路館、国司満雅使兵、守木造・阿射賀・多気大河内・坂内・玉丸等諸城、弟少将雅俊守木造城、顕雅守大河内城、国司守阿射賀城云々」とみえ、伊勢国司北畠満雅の軍事拠点として阿射賀城(阿坂城)が記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「阿坂城跡」の解説

あざかじょうあと【阿坂城跡】


三重県松阪市大阪坂町にある城跡。指定名称は「阿坂城跡 附高城跡(つけたりたかじょうあと) 枳城跡(からたちじょうあと)」。旧松阪市と旧一志(いちし)郡嬉野(うれしの)町との境界に近い、標高約300mの丘陵頂部に築かれた山城が阿坂城で、その東麓にこの2つの城跡がある。阿坂城は北畠満雅(きたばたけみつまさ)が築城し、南北300m、東西150mの範囲におよぶ。南北2つの曲輪(くるわ)からなり、台状地の南曲輪は、1415年(応永22)に北畠氏が足利幕府軍を迎え撃った戦いで幕府軍による水断ちの難にあった際、満雅が馬の背に白米を流して水が豊富にあるように見せかけ、敵をあざむいて退却させたという伝説から白米城の別名がある。その後、1569年(永禄12)に織田信長が大河内(おおこうち)城に居城する北畠具教(とものり)を攻略するため大軍を発し、北畠氏の重臣、大宮氏の守る阿坂城を木下藤吉郎らによって攻め落としている。以後、阿坂城は使用されることなく廃城となった。北曲輪は帯曲輪をめぐらせた少し複雑な構造で、椎ノ木(しいのき)城とも呼ばれる。『南方紀伝』によると、阿坂城には「両出城」があったと記されており、現存する小阿坂町の枳城と大阪坂町の高城跡と考えられているところから、1982年(昭和57)に同時に国指定史跡になった。枳城跡は阿坂南曲輪に似た構造、高城跡は土塁虎口のある堅固な造りである。阿坂城と枳城は南北朝期の特徴があり、高城は戦国期に改修されたことが明らかである。阿坂城跡へは、JR紀勢本線ほか松阪駅から三重交通バス「岩倉口」下車、徒歩約55分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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