日本歴史地名大系 「高城跡」の解説
高城跡
たかじようあと
鎌倉末期から南北朝初期、島津忠宗の子時久は新納を名字とし、新納院地頭職をもっていた(建武二年一二月一一日「足利尊氏宛行状写」新納氏系図)。観応の擾乱が九州に波及すると日向国大将畠山直顕は足利直義方として派遣された足利直冬方につき、足利尊氏方の時久の拠る高城を包囲し攻め落した(文和二年正月二八日「沙弥昌運請文」旧記雑録)。時久は新納院から没落し、薩摩国
康正三年(一四五七)七月、財部を拠点とした土持氏は
高城跡
たかしろあと
高城跡
たかじようあと
高城跡
たかしろあと
高城跡
たかじようあと
高城跡
たかだまじようあと
高城跡
たかじようあと
鹿児島湾に突出した
高城跡
たかじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報