高城跡(読み)たかじようあと

日本歴史地名大系 「高城跡」の解説

高城跡
たかじようあと

[現在地名]木城町高城

小丸おまる川と支流切原きりばる川に挟まれた舌状に突出する標高約六〇メートルの台地上に築かれた山城。城下にはまち横町よこまちなどの小名が残り、宮崎県下でも旧状を掌握することのできる城の一つである。新納にいろ院支配の核をなす城とされる。史料に出る高城は城をさす場合と、城の周辺地域をさす地域呼称として使われる場合とがあり、ここでは一括して扱う。

鎌倉末期から南北朝初期、島津忠宗の子時久は新納を名字とし、新納院地頭職をもっていた(建武二年一二月一一日「足利尊氏宛行状写」新納氏系図)。観応の擾乱が九州に波及すると日向国大将畠山直顕は足利直義方として派遣された足利直冬方につき、足利尊氏方の時久の拠る高城を包囲し攻め落した(文和二年正月二八日「沙弥昌運請文」旧記雑録)。時久は新納院から没落し、薩摩国高江たかえ(現鹿児島県川内市)・日向国救仁くに(現同県志布志町など)へと移り、直義方に仕えることとなったとも伝えるが(新納氏系図)、直義方になったとは考えにくい。また南北朝前期に土持氏が高城合戦での戦功を賞された感状があったという(「土持氏所持文書書上」土持文書)。この高城は諸県もろかた郡高城(現高岡町)か当城か微妙であるが、財部たからべ(現高鍋町)に土持氏が勢力を張ったことをみると、当城の可能性がある。

康正三年(一四五七)七月、財部を拠点とした土持氏はあがた(現延岡市)から南下し伊東氏と小浪こなみ川で合戦となったが、土持氏は敗北し財部城を開城した。九月一二日、伊東氏は財部城とともに高城など一〇ヵ所の城を傘下に置いた。文明一六年(一四八四)の伊東氏の飫肥おび攻略の際には高城は伊東祐国の直轄軍に編成されていた。天文二年(一五三三)伊東祐充死去後の伊東氏の内訌のなかで伊東祐清が祐武を殺害したため、祐武の子左兵衛佐は祐清攻略のため高城・財部に向かい、高城を傘下におさめた。しかし財部城の離反により失敗し、高城衆も祐清方に移り祐清の継承が認知されている。翌三年二月、高城が祐清に帰順するなか、米良一揆の軍勢が高城に乱入し番衆と合戦になった。このとき伊東氏家中の荒武三省らの重臣が討死している。


高城跡
たかしろあと

[現在地名]諫早市高城町

しろ(約五〇メートル)に築かれた中世の城館の跡。県指定史跡。史料上はかめ城とも記され、また伊佐早いさはや城とあるのは当城の可能性が高い。築城年代は未詳ながら、応安七年(一三七四)征西将軍宮方を追討するために進攻してきた今川了俊が入った船越ふなこし城を高城とする説があり、また文明年間(一四六九―八七)西郷尚善が宇木うき(現有喜)から伊佐早に移転して造営が行われたともいう。尚善は城南の上山じようやまの曹洞宗天祐てんゆう寺を創建したとされるが、また純久・純尭と三代にわたって有馬氏と結んで高来たかく郡北部から藤津ふじつ郡・彼杵そのき郡まで勢力を伸ばし、船越城・宇木城・小野おの城・おき城などを支城としたとされる(西郷記)。永禄六年(一五六三)高城主の西郷弾正少弼は有馬氏との対立が強まるなか、山頂に愛宕山大権現を勧請している。天正五年(一五七七)六月下旬、伊佐早高城は龍造寺隆信により包囲され、支城の宇木城も攻撃を受けて落城したという。


高城跡
たかじようあと

[現在地名]垂水市高城 牧

本城ほんじよう川下流左岸、標高五六メートルを最高地点とする南から北に延びるシラス台地を主とする山城。下大隅郡は一二世紀までに島津庄寄郡となり(大隅国建久図田帳)、一四世紀初頭までに島津庄大隅方惣地頭(大隅守護)名越氏の被官肥後氏が地頭代となったことにより、肥後氏の所領となったと考えられる。これに伴って高城も一四世紀初頭までに肥後氏の居城となった(「隅府温故集」など)。肥後氏は南北朝期に南朝方となって日向の楡井頼仲や日向守護の畠山直顕と結び、文和四年(一三五五)直顕を頼った肥後種顕・種久が崎山さきやま(海潟に所在)に拠っているように(同年四月二〇日「島津氏久請文」旧記雑録)、当城に拠り北朝方の大隅守護島津氏と対抗した。応永一九年(一四一二)守護島津久豊の被官伊地知季豊は下大隅郡内を宛行われ(同年三月二四日「島津久豊宛行状」旧記雑録)ほん(垂水本城)しん(松尾城)を築いた(三国名勝図会)


高城跡
たかしろあと

[現在地名]綾部市七百石町

高城山(二九八・七メートル)の山頂にある。高城山は八田やた郷中央部の山塊で、東は上杉うえすぎ梅迫うめざこ安国寺あんこくじの各村、西は西股にしまたの諸村の境界となっている。山頂より西南の尾根に四段の削平地があり、一部には土塁も残る。また山頂の東北には深い尾根切りがある。

「丹波志」に「大槻氏旧栖、高城本丸ニ秋葉権現アリ、後平山治部少輔ト云」とあり、享保一五年(一七三〇)成立と思われる梅迫伝聞記(高雄家蔵)は「乾昌山ノ西南ニ有山城跡、此ノ所大槻一説作 大月 此子孫綾部ノ下モ在大嶋邑言焉衛門兵衛何某暫成居謂領隣近、按天正年中ノ事乎、秀吉公制山城後退言、其跡今謂高城」と述べている。


高城跡
たかじようあと

[現在地名]下田村森町

袴腰はかまごし山の標高三七三メートルの稜線沿いにある。老曾ろうそ城ともよぶ。曲輪・空堀・畝形土塁跡が一帯に残る。周囲の小峰にも支城をもち、新屋あらやに面した城を牛窪うしくぼの城、院内いんないに面した城を蛇尾じやおの城と称した。所伝では下田長尾氏とも古志長尾氏の居城であるともいう。長尾氏の菩提寺もり町の長禅ちようぜん寺とされ、寛延三年(一七五〇)の村松領各宗由緒帳(北方文化博物館蔵)に「中興開基 長尾遠江守法名長禅寺殿来翁本公大居士、廟所境内ニ有之候」とある。


城跡
たかだまじようあと

[現在地名]天童市高擶

高擶南たかだまみなみの集落中にあり、跡地は現在宅地となっている。最上氏始祖の斯波兼頼の孫義直が高擶に分封されているが(最上氏系図)、当初の館は現在地より西と推定され、たてしろの地名が残る。おそらく文明―明応(一四六九―一五〇一)頃に現在地に移され、本格的な城とされたと思われる。古くは高楡とも記されたと思われ、「伊達正統世次考」によれば、伊達稙宗は「公自ら最上高楡城を攻め、之を破り七人を捕虜す」とある。


高城跡
たかじようあと

[現在地名]大根占町神川

鹿児島湾に突出したじようさきに連なる高台先端部、標高一〇八メートルの地を中心に築かれた山城。神川かみかわ城ともいう。黒木助能が当城を居城とし、寿永元年(一一八二)に筑後国猫尾ねこお(現福岡県黒木町)へ移ったと伝えるが(黒木文書)、確認はできない。富山氏の居城とされた。当城と東方の台地との間は三条の空堀で区切られ、曲輪内には一・五メートルから八メートルの段差をもついくつかの削平地がみられるが、一部は畑となっている。本丸という曲輪は南東部最高所の削平地と推定され、面積も他の削平地をしのいでいる。城の東端、空堀の崖縁には、台地からの攻撃に備えた高さ三メートル、上面幅三メートル・基底部幅四メートルの土塁が現存している。


高城跡
たかじようあと

[現在地名]竹田市九重野 高源寺

JR豊肥本線玉来たまらい駅の南。「大友家文書録」別記録天正一五年(一五八七)二月二九日条に、いったん島津軍に奪われたが志賀親善が回復した一五所の一つとしてみえる。「豊後国志」は入田にゆうた郷高城山とし、佐田常任が拠ったとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「高城跡」の解説

たかじょうあと【高城跡】


阿坂城跡(あざかじょうあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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