日本歴史地名大系 「阿蔵村」の解説 阿蔵村あぞうむら 愛知県:東加茂郡下山村阿蔵村[現在地名]下山村阿蔵現下山村の東北端、東は現北設楽(きたしたら)郡設楽町、南は宇連野(うれの)村、西から北は保殿(ほどの)村・梨野(なしの)村に接する。巴(ともえ)川の支流野原(のわら)川の上流阿蔵川が流れ、集落は小起伏面上の山麓に点在。現主要地方道設楽―下山―足助線と同阿蔵―本宿線が通じる。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。慶安四年(一六五一)保久(ほつきゆう)村(現額田郡額田町)に陣屋を置く旗本石川総氏の知行地となり明治に至る。山麓高台に曹洞宗滝沢山福寿(ふくじゆ)院がある。当初は天台宗寺院で、段戸(だんど)山(現北設楽郡設楽町)にあったと伝える。天文二年(一五三三)恵岳のとき転宗。寛永六年の検地帳(下山村誌)に寺僧慶球所有の田畑が記されているが、現在地移転の時期は不詳。 阿蔵村あくらむら 静岡県:天竜市阿蔵村[現在地名]天竜市二俣町阿蔵(ふたまたちようあくら)二俣村の東、二俣川支流の阿蔵川流域に位置する。阿倉とも。中世は二俣郷に含まれた。永正一八年(一五二一)正月二八日の某禁制写(玖延寺文書)に「阿蔵谷」とみえ、玖延(きゆうえん)寺が所在していた。江戸前期の領主の変遷は二俣村と同じ。元禄一二年(一六九九)当時は浜松藩領(同年の青山忠重領知目録)。宝暦一三年(一七六三)掛川藩領となったとみられ、幕末に至る。 阿蔵村あぞうむら 愛媛県:大洲市阿蔵村[現在地名]大洲市阿蔵肱(ひじ)川の支流久米(くめ)川北岸の低地と、高山寺(こうせんじ)山(五六一メートル)の南東麓の丘陵地とからなる、村高一千石の大村。元和九年(一六二三)から新谷藩領であったが、村替により文化九年(一八一二)以降、大洲藩領(→竹之窪井関跡)。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多(きた)郡の項に「阿蔵村 日損所、水損所、茅山有、川有」とある。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には「米中・大豆中・麦」を産し、名物は水鶏、「土地は平地五分よろし併し水損之地多し、民家近来貧乏者少し」とある。 阿蔵村あぞうむら 大分県:竹田市阿蔵村[現在地名]竹田市玉来(たまらい)玉来川が大きく湾曲する淀み地に位置し、川を渡った東は岡(おか)城下の西端にあたる。肥後への往還に沿い、玉来川には文禄年間(一五九二―九六)に阿蔵橋が架けられたという(寛文年間とも)。正保郷帳では矢倉(やぐら)郷に属し、田方一五四石余・畑方一三三石余。弘化物成帳では玉来組のうち、村位は下、免八ツ八分、田七八石余(八町三反余)・畑二三石余(五町二反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はほとんどなく、開畑二石余(四町一反余)がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by