院助(読み)いんじょ

精選版 日本国語大辞典 「院助」の意味・読み・例文・類語

いんじょヰンジョ【院助】

  1. 藤原時代仏師定朝の子、また定朝の弟子長勢の子とも伝える。院派七条大宮仏所の祖。法勝寺尊勝寺造像などその事績は文献によって知られるが、遺作そのものは知られていない。天仁元年(一一〇八)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「院助」の意味・わかりやすい解説

院助 (いんじょ)
生没年:?-1108(天仁1)

平安時代の仏師。院派仏師の初代で,1077年(承暦1)白河天皇の御願寺法勝寺金堂の造仏に携わり,完成を待たずに死んだ覚助を継いで法橋位を授けられる。その後も皇家仏像を造ることが多く,同じ法勝寺薬師堂の大威徳明王像や尊勝寺阿弥陀如来像,堀川天皇病気平癒のための釈迦三尊像などが記録の上から知られるが,現存する作品はない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「院助」の意味・わかりやすい解説

院助
いんじょ

[生]?
[没]天仁1(1108).12.12.
平安時代後期の仏師。覚助の子。長勢の子とも伝えられる。後世,七条大宮仏所,いわゆる院派創始者とされる。造仏の功により法橋,のちに法眼に叙された。遺作はまだ知られていない。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「院助」の解説

院助 いんじょ

?-1109* 平安時代後期の仏師。
院派の祖。覚助あるいは長勢の子といわれる。長治(ちょうじ)2年尊勝寺の造仏で法眼となる。なくなった堀河天皇を供養するため嘉承(かじょう)3年阿弥陀三尊像を制作した。天仁(てんにん)元年12月12日死去。

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世界大百科事典(旧版)内の院助の言及

【慶派】より

…鎌倉時代になり京都七条に仏所を置いたので,のちには七条仏所ともよばれた。覚助は父定朝に劣らぬ技能を備えていたらしいが,若年で没しており,その後をうけたのは定朝の弟子長勢,覚助の弟子院助であり,彼らは京都を中心に活躍する。覚助の子頼助は技術の上では院助より劣っていたらしく,中央では容れられず,早くから南都奈良に下って,祖父定朝以来関係の深かった興福寺の仏師となった。…

※「院助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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