デジタル大辞泉
「長勢」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
Sponserd by 
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
Sponserd by 
長勢 (ちょうせい)
生没年:1010-91(寛弘7-寛治5)
長成とも書く。平安中期の仏師で定朝の弟子。のちの三条仏所(仏所),円派の始祖とされる。1065年(治暦1)法成寺金堂造仏の功で法橋,70年(延久2)円宗寺の造仏の賞として,定朝の子覚助とともに法眼に叙せられる。のち覚助なきあとの定朝工房を支え,77年(承暦1)には法勝寺金堂,講堂,阿弥陀堂の造仏により,師定朝も達することができなかった僧綱最高位に当たる法印を与えられている。その後も公家の大寺院の造仏に従事し,法勝寺九重塔の仏像,常行堂の丈六阿弥陀像などを手がけた。現存する遺作に1064年(康平7)の広隆寺日光・月光菩薩像,十二神将があり,その典雅な作風が知られる。
執筆者:佐藤 昭夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
Sponserd by 
長勢
没年:寛治5.11.9(1091.12.21)
生年:寛弘7(1010)
平安中期の仏師。長成とも書く。定朝の弟子,円勢の父または師と伝えられる。定朝の嫡男である覚助と共に定朝没後の造像界をになった中心的な人物で,のちに京都三条仏所(円派)を開いた。その活躍は,天喜6(1058)年に焼失した法成寺復興事業に参加したことに始まり,その造仏により治暦1(1065)年に法橋に叙された。延久2(1070)年には円宗寺金堂の2丈の毘盧舎那仏と薬師如来,および一字金輪,梵天,帝釈天,四天王の各丈六像を造って法眼となり,承暦1(1077)年には法勝寺講堂および阿弥陀堂の諸像制作の功で法印に上った。平安時代後期の正系仏師の作品はその記録のみで実作例は殆ど遺っていないが,現存する京都・広隆寺の日光・月光菩薩および十二神将像は康平7(1064)年に長勢が造った作品と伝えられ,その典雅で力強い作風は,藤原様式の大成者である定朝の直弟子として恥じないものといえる。<参考文献>小林剛「仏師法印長勢」(『日本彫刻作家研究』)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
Sponserd by 
長勢
ちょうせい
(1010―1091)
平安中期の仏師。長成とも書く。三条仏所の始祖で、定朝(じょうちょう)の弟子。兼慶、円勢の父。1065年(治暦1)法成(ほうじょう)寺金堂造仏の功で法橋(ほっきょう)、70年(延久2)円宗寺の造仏により、定朝の子覚助(かくじょ)とともに法眼(ほうげん)に叙せられ、覚助なきあとの定朝工房を支え、11世紀後半における造仏界で第一人者として活躍した。77年(承暦1)には法勝(ほっしょう)寺金堂・講堂・阿弥陀(あみだ)堂の造仏の功で、師定朝も達しえなかった僧綱(そうごう)最高位の法印(ほういん)を与えられた。その後も公家(くげ)の大寺院の造仏に従事し、法勝寺九重塔の仏像、常行堂の丈六阿弥陀像などを手がけた。現存する唯一の遺作である1064年(康平7)の広隆寺日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)、十二神将像からは、その典雅な作風がうかがえる。
[佐藤昭夫]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
Sponserd by 
長勢
ちょうせい
[生]寛弘7(1010)
[没]寛治5(1091).11.9.
平安時代後期の仏師。定朝の弟子。康平7 (1064) 年広隆寺に現存の『日光・月光菩薩像』『十二神将像』を造立,治暦1 (65) 年法成寺金堂の造仏賞で法橋,延久2 (70) 年円宗寺金堂の造仏の功で法眼,承暦1 (77) 年法勝寺の『阿弥陀像』などの造仏賞で法印に昇叙。応徳2 (85) 年には法成寺の丈六『阿弥陀像』を造立した。京都三条仏所を開き,円勢,長円,賢円,忠円などの仏師を擁して公家,宮中の造仏に活躍した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 
長勢 ちょうせい
1010-1091 平安時代中期-後期の仏師。
寛弘(かんこう)7年生まれ。円勢の父。定朝(じょうちょう)の弟子。円派の始祖。法成(ほうじょう)寺,円宗寺,法勝(ほっしょう)寺の講堂・阿弥陀(あみだ)堂などの仏像をつくり,仏師ではじめて最高の法印にすすむ。寛治(かんじ)5年11月9日死去。82歳。京都出身。長成ともかく。作品に広隆寺の日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)像,十二神将像など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 