ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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平安後期から鎌倉、室町時代にかけて続いた仏師の系統の通称。仏師の祖といわれた定朝(じょうちょう)の孫にあたる院助を祖とする七条大宮仏所、およびその分派たる院朝を祖とする六条万里小路(までのこうじ)仏所に属する仏師たちは、その名に院の字を付する者が多いので、後世この流派を院派とよんでいる。また、これらの仏所の正式名称は京都における所在地を示している。この派は院助、院覚、院尊らの活躍もあって、一時は造仏界に君臨する勢いをも示した。その作風は和様彫刻の流れをくんで、やさしく品格のあるもののようであったが、反面伝統的な形式化したもので、造形的な厳しさに欠けるところがあった。そのため見た目の美しさを求める藤原貴族の趣向にかなってはいても、鎌倉武士階級の好みではなく、また院尊以後実力者の出なかったことも原因して、鎌倉時代初頭の南都二大寺の復興を転機にしだいに衰え、貴族階級など旧文化層のなかで惰性的に造像をすることで余命を保った。
[佐藤昭夫]
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
…中央から除外された慶派の運命を変えたのは,治承の南都焼亡(1180)による興福寺,東大寺の復興造営と鎌倉武家政権の成立である。南都復興の最初に行われた興福寺の造営では,慶派は院派,円派に主要な堂塔の造仏をゆずらねばならず,慶派直系の康朝の子成朝は中央で閉ざされた道を鎌倉で開くべく下向している。しかし,つづく東大寺の造仏では,慶派がほとんど独占することになった。…
…日本の職業的仏師の最初といわれる定朝やその子,また弟子が,各自こうした仏所をつくっている。定朝の子覚助に始まり,鎌倉時代に運慶,快慶をはじめ多くの名工を生んだ七条仏所(慶派),弟子の長勢から出た三条仏所(円派),覚助の子院助に発する七条大宮仏所(院派)などがそれである。いずれも仏所の所在地を示しているようであるが,こうした呼称は鎌倉時代も後半以降のことのようで,当初はこうした呼び方ではなく,それぞれの大仏師の名を冠して呼んだのではないかと推定される。…
※「院派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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