平安時代の中ごろ以降組織化された仏師の一派で,名前の頭に〈院〉を冠することから院派仏師と呼ばれている。初代は覚助の弟子院助。仏師系図には,この一派の工房があった京都の地名をとって,七条大宮仏所,六条万里小路仏所と記すものもある。平安時代には,皇家や貴族の仏像を造ることが多く,院助,院覚,院朝,院尊などが出て,最も勢力のある一派であった。鎌倉時代の前半には,運慶を中心にした慶派仏師に押されたが,後半から南北朝時代にかけては関東地方の禅宗・律宗関係寺院に進出する一方,将軍家仏師になるなど,多くの仏像を造立している。その作風は穏やかで,眉を長くゆるやかに引く優雅な面相と起伏の滑らかな衲衣(のうえ)など貴族の趣向がうかがえるものが多い。また,院派仏師は紀伊国吉仲荘,周防国美和荘など荘園の知行権を平安時代から相伝しており,他派と違った仏師の性格をもっていた。
執筆者:清水 真澄
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平安後期から鎌倉、室町時代にかけて続いた仏師の系統の通称。仏師の祖といわれた定朝(じょうちょう)の孫にあたる院助を祖とする七条大宮仏所、およびその分派たる院朝を祖とする六条万里小路(までのこうじ)仏所に属する仏師たちは、その名に院の字を付する者が多いので、後世この流派を院派とよんでいる。また、これらの仏所の正式名称は京都における所在地を示している。この派は院助、院覚、院尊らの活躍もあって、一時は造仏界に君臨する勢いをも示した。その作風は和様彫刻の流れをくんで、やさしく品格のあるもののようであったが、反面伝統的な形式化したもので、造形的な厳しさに欠けるところがあった。そのため見た目の美しさを求める藤原貴族の趣向にかなってはいても、鎌倉武士階級の好みではなく、また院尊以後実力者の出なかったことも原因して、鎌倉時代初頭の南都二大寺の復興を転機にしだいに衰え、貴族階級など旧文化層のなかで惰性的に造像をすることで余命を保った。
[佐藤昭夫]
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平安後期以降の仏師の一派。覚助の弟子院助(いんじょ)に始まるが,この系統の仏師の名には院の字のつくことが多いので院派とよばれる。京都に七条大宮仏所・六条万里小路(までのこうじ)仏所を構え,おもに宮廷や貴族関係の造仏にたずさわった。とくに院覚の子院尊(いんそん)は,平安末~鎌倉初期に造仏界の重鎮として活躍。鎌倉時代に入り,院尊の子院実をはじめ院賢や院範などが活躍したが,慶派の勢力に押され,造仏界の主流となることはなかった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…中央から除外された慶派の運命を変えたのは,治承の南都焼亡(1180)による興福寺,東大寺の復興造営と鎌倉武家政権の成立である。南都復興の最初に行われた興福寺の造営では,慶派は院派,円派に主要な堂塔の造仏をゆずらねばならず,慶派直系の康朝の子成朝は中央で閉ざされた道を鎌倉で開くべく下向している。しかし,つづく東大寺の造仏では,慶派がほとんど独占することになった。…
…日本の職業的仏師の最初といわれる定朝やその子,また弟子が,各自こうした仏所をつくっている。定朝の子覚助に始まり,鎌倉時代に運慶,快慶をはじめ多くの名工を生んだ七条仏所(慶派),弟子の長勢から出た三条仏所(円派),覚助の子院助に発する七条大宮仏所(院派)などがそれである。いずれも仏所の所在地を示しているようであるが,こうした呼称は鎌倉時代も後半以降のことのようで,当初はこうした呼び方ではなく,それぞれの大仏師の名を冠して呼んだのではないかと推定される。…
※「院派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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