改訂新版 世界大百科事典 「院宮分国」の意味・わかりやすい解説
院宮分国 (いんぐうぶんこく)
院分,皇后宮分などと指定された令制の国。908年(延喜8)宇多上皇の分国に充てられた信濃国を初見とし,ついで冷泉,円融,三条,後三条各上皇の分国が見えるが,院政期以降飛躍的に増大した。女院(によいん)の場合は,最初の女院,東三条院以下,上東門院,陽明門院など国母(天皇の生母)たる女院に分国が充てられたが,さらに白河上皇寵愛の皇女郁芳門院がこの恩典に浴してから女院一般に広まった。皇后宮の例は,近衛天皇の母后藤原得子の分国越前を初見とするが,以後鎌倉時代にかけて,中宮,東宮,斎宮,斎院などの分国が出現した。
院分国は,はじめ個別的,特例的にあてがわれたが,しだいに慣例化するに伴い,受領(ずりよう)(原則として国守)任命の手続のなかに組み込まれて制度化し,急速に発展した。《江家次第》によれば,受領の新任は,外記や史らの官人の巡任(年労等により定められた順序による任命)および別功によるほか,院の推挙によるものがあり,これを院分受領といい,その任国を院分国といった。《西宮記》《北山抄》には,官人の巡任や別功のことは見えるが,院分は見えないので,院分国は摂関期末ないし院政期の初めに制度化したらしく,その実例は《中右記》以下の院政期の記録によく見られるようになる。それによると,院分受領も,巡任による官人の補任などと同じく,欠国(守が欠員の国)の有無その他の事情によって,除目(じもく)(任官儀)ごとに必ず補任されるとは限らないし,推挙権の強弱が反映することもまた当然で,たとえば白河上皇の分国は24例を数え,前後に例を見ない多数にのぼっている。ただ院分受領も,はじめは任期や功過査定などについては一般の受領と同様の扱いを受けており,分国主に対する財力奉仕の事例は少なくないが,国主の収益の具体的な内容は明らかでない。なお院宮分国制と類似した制度に,天皇,上皇以下公卿らに一定の官職・位階の推挙権を与える年給制度があり,そのうちの国守を給するのが院宮分国制であるとする説もあるが,年給は受領補任とは別個の手続で行われるもので,両者は永く並行して存続している。
鳥羽院政に入って,院宮分国は急激に減少したが,後白河院政以降はまたしだいに増加し,その間大きく変質して分国主の領国と化していった。それはまず分国が特定の国に定着する傾向として現れた。後白河上皇の分国伊予,播磨,讃岐,美濃などがそれで,当然上皇の支配統治が全面的に国中に及び,領国化した。そしてさらに鎌倉中期以降は,分国が伝領の対象とされるに至った。後嵯峨上皇が讃岐,美濃を亀山天皇に,播磨を後深草上皇に伝えたのをはじめ,後宇多上皇の処分状にも讃岐,越前,因幡3国が見え,播磨国が後深草上皇から伏見上皇に譲られ,ついには〈播磨国衙領〉として伏見宮家領のなかに編入された事実は有名である。
執筆者:橋本 義彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報