日本大百科全書(ニッポニカ)「陶潜」の解説
陶潜
とうせん
(365―427)
中国、東晋(とうしん)・宋(そう)の詩人。字(あざな)は淵明(えんめい)。また、本名淵明、字を元亮(げんりょう)ともいう。潯陽柴桑(じんようさいそう)(江西省)の人。
[石川忠久]
13年間の宮仕え
東晋王朝の草創期に大功をたてた軍閥の大立物陶侃(とうかん)の曽孫(そうそん)というが、祖父、父とも事績ははっきりしない。母方の祖父孟嘉(もうか)は、将軍桓温(かんおん)に仕え、風流な人物として知られる。下級貴族の貧乏な家に生まれ、父は早く亡くなった。若いころ勉学に励み、立身の望みを抱くが、29歳で初めて州の祭酒(さいしゅ)(学事担当)となって仕官した。それもまもなくやめ、続いて主簿(しゅぼ)(秘書担当)となったが就任せず、一時故郷に帰った。35歳のころ、鎮軍将軍の参軍(幕僚)となって一揆(いっき)討伐に従軍、また荊州(けいしゅう)(湖北省)の軍閥桓玄(かんげん)の幕府にも仕えた。最後に故郷にほど近い彭沢(ほうたく)の令(県の長)を80日余勤めて辞め、足掛け13年にわたる役人生活に終止符を打った。41歳であった。「われ豈五斗米(あにごとべい)(県令の俸給)のために腰を折りて郷里の小人に向かわんや」とは、県を査察にきた郡の小役人(郡の下に県がある)にぺこぺこできるものか、と県令の職をなげうったときの名せりふである。
[石川忠久]
田園に帰る
当時の貴族社会においては、低い家柄の出身は結局うだつがあがらず、祖先の誇りと才能を自負する淵明ではあったが、ついに立身の夢は果たされなかったのである。その田園へ帰る心境を述べたものが「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」である。前半は、宮仕えを辞めて田園へ帰った解放感を秋の情景のなかに描き、後半は、迫りくる老年に、もっぱら残りの人生を天命に任せる心境を春の情景のなかに描く。「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れなんとす、胡(なん)ぞ帰らざる」の名句で始まり、全体に詠嘆的調子が強いが、新鮮な情景描写と清らかな風趣に富む傑作である。これは、いよいよ役人を辞めて隠逸生活に入るという宣言の意味をもつもの、とみることができよう。以後は、63歳で死ぬまで、おもに州都の潯陽(九江市)近辺にあって隠逸の士として世に処し、名声を得た。50歳過ぎのころ、朝廷より、隠士に名目的に与えられる著作佐郎の官を授けられている。
[石川忠久]
隠逸詩人の宗
淵明の詩は今日、四言詩9首、五言詩120首余りが伝わっている。内容は、田園における隠士の生活を歌ったもの、自適の心境を吐露したもの、州県の役人たちとの贈答詩、詠史、擬古などが主である。閑雅な趣(おもむき)のなかにも、ときに激しい感情が表されており、宋の蘇東坡(そとうば)(蘇軾(そしょく))はこれを評して、「その詩は質(質朴)であるが実は綺(き)(あでやか)、癯(く)(やせている)であるが実は腴(ゆ)(豊か)」といっている。また彼は性来酒を好み、その詩は「篇々(へんぺん)酒有り」と称せられるほどである。なかでも、秋の夜のつれづれに酒を飲み書き散らしたという「飲酒」と題する20首の連作は、淵明独特の詩境を余すところなく伝えるものである。もっとも人口に膾炙(かいしゃ)する「其(そ)の五」をみよう。
結廬在人境
廬(いおり)を結びて人境に在り
而無車馬喧
而(しか)も車馬の喧(かしまし)き無し
問君何能爾
君に問う 何ぞ能(よ)く爾(しか)ると
心遠地自偏
心遠ければ地自(おのずか)ら偏なり
采菊東籬下
菊を采(と)る東籬(とうり)の下(もと)
悠然見南山
悠然として南山を見る
山気日夕佳
山気日夕(にっせき)に佳(よ)く
飛鳥相与還
飛鳥相与(とも)に還(かえ)る
此中有真意
此(こ)の中真意有り
欲弁已忘言
弁ぜんと欲して已(すで)に言を忘る
初めの四句は前置き。自問自答の形で、隠逸は山中に住む必要はなく、心のもちようで社会から遠ざかることができる、という。中ほどの四句が千古の絶唱といわれる。人生の真の意味を秋の夕暮れの景色のなかにとらえて描く。そして、この意味は説明することができず、自分のように体得しなければならない、と世人を突き放す。世俗を低くみる傲然(ごうぜん)たる態度である。それにしても、菊を摘みつつ見やる山の夕暮れの景は味わい深く、詩人のセンスが遺憾なく発揮されている。このように淵明の詩の特色は、隠者にして詩人、を主張した点にある。梁(りょう)の鍾嶸(しょうこう)(?―518)の『詩品』に、淵明を「古今隠逸詩人の宗なり」という。彼は隠士の処世を優れた感覚で歌った初めての詩人であった。隠士の目でとらえた自然、隠士の態度で過ごした生活を詩に歌い成功している。
しかし、この詩風は当時にあっては特異な位置にあるもので、詩壇の主流にはなく、『詩品』でも上中下の中品に列しているにすぎない。同時代の謝霊運(しゃれいうん)や顔延之(がんえんし)らの修辞に意を用いた秀麗な詩が六朝(りくちょう)詩の本流であるのには遠く及ばないものであった。その影響も、『文選(もんぜん)』を編した梁の昭明太子蕭統(しょうとう)らの尊崇を得てはいるが、好事(こうず)の域を出ず、六朝期にはさほどみられない。唐代に入って、王維(おうい)、孟浩然(もうこうねん)、韋応物(いおうぶつ)、柳宗元(りゅうそうげん)らの自然派の詩人の仰ぐところとなり、大いに位置を高め、宋の蘇東坡の賞賛に至って、六朝第一のみならず、古今独歩の詩人の名を確立した。
詩のほかに、賦(ふ)(「閑情賦」など)、散文(「自祭文」「子儼(げん)らに与うる疏(そ)」など)、雑伝(「五柳(ごりゅう)先生伝」「五孝伝」「四十八目」など)があり、なかでも「五柳先生伝」が有名である。家の周りに5本の柳が植えてあるのでそうよばれる隠者の伝だが、淵明自身を描いたものだと評された。また、桃の花咲く林の奥の不思議な村里の物語「桃花源記(とうかげんき)」もよく知られるが、これは淵明の編という『捜神後記(そうじんこうき)』中に収められている。
彼の隠逸生活にまつわるエピソードは多く、顔延之が酒代2万銭を恵んだ話、酒がなくて菊の花の中に座っていたら、江州刺史(しし)(長官)の王弘(おうこう)が酒を届けた話、頭巾(ずきん)で酒を漉(こ)した話、弦の張っていない琴(きん)を愛撫(あいぶ)した話、慧遠(えおん)・陸修静(りくしゅうせい)との虎渓(こけい)の三笑の話など、いずれも隠逸ぶりが誇張され、尾ひれがついたものである。死後、靖節(せいせつ)と諡(おくりな)され、顔延之が誄(るい)を書いた。『陶靖節集』10巻が伝わる。
わが国へは早くから伝来し、藤原佐世(すけよ)の『日本国見在書目録』(日本へ伝来した漢籍のもっとも古い書目)に「陶潜集十巻」という記載がある。王朝時代より愛読されていたことがわかる。夏目漱石(そうせき)の『草枕(くさまくら)』に「飲酒 其の五」が引用され、石川啄木(たくぼく)の日記(明治40年12月27日)に、その詩集を読んだ感想が述べられているのはよく知られる。
[石川忠久]
『一海知義注『中国詩人選集4 陶淵明』(1958・岩波書店)』▽『一海知義・興膳宏校注・訳『世界古典文学全集25 陶淵明・文心雕龍』(1983・筑摩書房)』▽『吉川幸次郎著『陶淵明伝』(1956・新潮社)』▽『松枝茂夫他著『中国の詩人2 陶淵明』(1983・集英社)』