日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原佐世」の意味・わかりやすい解説
藤原佐世
ふじわらのすけよ
(?―897)
平安初期の漢学者。式家の種継(たねつぐ)の曽孫(そうそん)、父は正五位下菅雄(すがお)。菅原是善(すがわらのこれよし)(道真(みちざね)の父)に学んだ。872年(貞観14)文章得業生越前大掾(とくぎょうしょうえちぜんだいじょう)であった佐世は鴻臚館(こうろかん)に遣わされて渤海(ぼっかい)使の接待にあたった。879年(元慶3)陽成(ようぜい)天皇の都講(とこう)となり、884年大学頭(だいがくのかみ)となった。また藤原基経(もとつね)の家司(けいし)となっており、基経の侍読(じどく)を務めた。887年(仁和3)宇多(うだ)天皇即位のとき阿衡(あこう)事件が生じたが、阿衡の語義を問題にしたのは佐世であり、勅答の起草者橘広相(たちばなのひろみ)に対する対抗意識から基経を利用したのである。891年(寛平3)陸奥守(むつのかみ)とされて奥州へ移り、897年右大弁に任ぜられて奥州から京へ帰る途中で死去した。従(じゅ)四位下。『日本国見在書目録(にほんこくげんざいしょもくろく)』は佐世が勅によって撰(せん)したもの。
[坂本賞三]