木津村(読み)きづむら

日本歴史地名大系 「木津村」の解説

木津村
きづむら

[現在地名]七塚町木津

河北郡北西部、内灘うちなだ砂丘の一部である河北台かほくだい砂丘上に位置し、西は日本海、北は高松たかまつ(現高松町)、東は横山よこやま(現宇ノ気町)、南は松浜まつはま村。中世は金津かなつ庄横山村の内。延徳三年(一四九一)九月に固定化したものを再編した天文六年(一五三七)正月の金津庄横山村名別公事銭等納帳(賀茂別雷神社文書)に「木津宮名」がみえ、六八文直分・月宛二八四文・検注三二七文・兵粮二斗八合・節料二升四合のほか、賀茂競馬の馬代三〇一文・御服代八〇〇文を負担している。また同帳には「木津はま 四石」が記され、牛丸小田津・重光小田津・西念さいねん小田津・慶豪けいごう小田津に分割されて登場する「小田津」も木津周辺の浜方に関連するものと推定されているが(七塚町史)、横山不湖の津の可能性もある。さらに西念小田津には「今ハ木津クン道持」の注記があり、同七―八年分の金津村算用状案(賀茂別雷神社文書)に木津四郎二郎・木津四郎左衛門・木津孫二郎・木津次郎の名がみえる。

慶長六年(一六〇一)一二月一三日付の石川郡・河北郡一六ヵ村の浜方地子を免除した前田利長判物(加賀藩史料)に木津村の名がみえる。無高所で、寛文一〇年(一六七〇)の村御印(木津区有文書)では小物成のみ記載。地子銀五六〇匁、塩竈役二六匁(退転)・猟船櫂役八五匁(うち四〇匁出来)・外海引網役六〇匁(ほか三〇匁退転)・外海船櫂役三七八匁(出来)・油役八匁(出来)・六歩口銭一匁七分(出来)。漁業をおもな生業とし、文化四年(一八〇七)の両組船数間数相調書上申帳(七塚町史)によれば、浜は三八八間、網場は三統、ほかに高松村から二統借受け、ドウ舟七艘・テント舟一八艘があった。

木津村
きづむら

[現在地名]浪速区敷津西しきつにし一―二丁目・敷津東しきつひがし一―三丁目・大国だいこく一―三丁目・塩草しおくさ二―三丁目・浪速なにわひがし一―三丁目・浪速西なにわにし一―四丁目、西成にしなり北開きたびらき一―二丁目・中開なかびらき一―三丁目・南開みなみびらき一―二丁目・出城でしろ一―三丁目・長橋ながはし一―三丁目・鶴見橋つるみばし一―三丁目・あさひ一―三丁目・梅南ばいなん一―三丁目・まつ一―三丁目・たちばな一―三丁目・花園南はなぞのみなみ一―二丁目など

今宮いまみや村の西側にある大村。北は難波なんば村、西は十三間じゆうさんげん川を挟んで津守つもり新田(現西成区)。古くは海浜の寄洲で「万葉集」巻一二などにみえる「敷津の浦」を当地辺りに比定する説もある。また、聖徳太子四天王寺(現天王寺区)を造立するため諸国からその用材を集めた所と伝え、村名もこの伝承にちなむ。「源平盛衰記」巻四七(北条上洛平孫を尋ぬ付髑髏尼御前の事)に、髑髏の尼が「今宮の前木津と云ふ所」から難波の海に入水した記事がみえる。中世、当地辺りに四天王寺領木津庄があった。

木津村
こつむら

[現在地名]篠山市今田町木津

市原いちはら村の南に位置する。西部を東条とうじよう川が南流し、北東の和田寺わでんじ山麓から流れる奥山おくやま川が注ぐ。南部に梅木うめき峠がある。鎌倉期より小野原おのばら庄のうちとしてみえる。元徳三年(一三三一)三月二七日の沢間禅尼霊台寺領寄進状(清水寺文書)に「小野原庄市原木津村」とあり、村内の椙原すぎはら田一町三段・荒野三町が播磨清水きよみず(現社町)東院・大講堂に寄進されている。元弘三年(一三三三)にもこの田地一町三段・荒野一町は同寺領である確認が庄政所に出されている(一二月二日「田地荒野寄進状案」同文書)。建武三年(一三三六)八月一八日の須賀清秀寄進状(同文書)もこの土地にかかわるものであるが、その四至は「限東木戸、限南賀勢尾塔下、限北鍋塔下、西限寺領横道」とある。

木津村
きづむら

[現在地名]猪名川町木津

槻並つくなみ村の西に位置し、南は万善まんぜん村、西は上佐曾利かみさそり(現宝塚市)。「行基年譜」によれば、天平二年(七三〇)楊津やないづ院が行基によって建立されており、「和名抄」に記す川辺郡楊津郷とともに当地に比定する説がある。その跡地に建つという寺垣内の浄土宗(古くは真言宗)天沢てんたく寺に応永一〇年(一四〇三)銘の石灯籠(県指定文化財)があり、一結衆が願主であった(銘文)。中世は多田ただ庄のうちで、多田院(現川西市)の応安元年(一三六八)四月八日の金堂供養棟別銭注文(多田神社文書)に「木間木津両村 九十六家」とある。永和元年(一三七五)七月二五日の諸堂造営棟別銭郷村注文では「木津村」の七九家が多田院の法花堂・常行堂・地蔵堂造営のための棟別銭を納めている。

木津村
こうつむら

[現在地名]新旭町饗庭あいば

現新旭町の北端湖岸部にあり、北は今津いまづ(現今津町)、南はおか村。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に木津とあり、高一九七石余。寛永石高帳によれば高四一七石余、うち二九〇石余は若狭小浜藩領、一二〇石余は大溝藩領(数字は原本ママ)。慶安高辻帳では小浜藩領は田方二七八石余・畑方一七石余、大溝藩領は田方八一石余・畑方二石余・永荒三七石余。しかし百姓はすべて小浜藩に属したという。宝暦九年(一七五九)の家数八一、文化四年(一八〇七)の家数七〇・人数三三一(高島郡誌)。同五年の下札(木津区有文書)によれば大溝藩領分では堤敷地二斗余・砂入普請料一石一斗余・晩稲毛損二石九斗余、ほかに三石七斗余が引かれ、残る高に対する免三ツ五分九厘余であった。

小さいながら古くから琵琶湖舟運にかかわった湊で、慶安四年丸船改帳では「高津船」として五〇石積一、一四石積一、一三石積一とある。

木津村
きづむら

[現在地名]鳴門市撫養町木津むやちようきづ

南浜みなみはま村の西にあり、なか山の山麓を南へ流れる中山谷なかやまだに(新池川支流)に沿った南北に細長い村。西は大代おおしろ村、南は木津野きづの村・備前島びぜんじま村。南を淡路街道(撫養街道と重なる)が東西に通る。「南海流浪記」によれば、建長元年(一二四九)八月九日、紀伊高野山僧道範は讃岐からの帰路「紀津」から乗船して淡路へ向かっており、中世以来の湊があった。戦国期には木津城が築かれた。「阿波志」には古くは木津神浦、中世には沖原と称したとある。慶長二年(一五九七)の分限帳では木津とあり、二七四石余が益田内膳丞の知行分。寛永一四年(一六三七)に新開検地が行われている(「新開検地帳」鳴門市史)正保国絵図に木津村とあり、高二九八石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方二五三石余・畠方四五石余、芝山と注記される。

木津村
きづむら

[現在地名]日野町木津

野田のだ村の南東にあり、北は日野大窪ひのおおくぼ町。集落は御代参ごだいさん街道沿いに形成され、南側を日野川が西流。地名は綿向わたむき山一帯で伐採された木材が日野川を下り、当地で陸揚げされたことに由来するとされる。同川河畔に雨引あめひき神社が祀られているのは、川の増水を願ったものであろう。同神社の応永元年(一三九四)二月一八日銘の社殿造営棟札には「蒲生上郡日野牧内雨引大明神」とあり、願主として領主大聖だいしよう(現京都市上京区)の日野牧預所松波横浜六郎左衛門尉「光□」、同惣政所勘解由左衛門尉長盛らの名がみえる。

木津村
きづむら

[現在地名]高岡市木津・泉町いずみまち鐘紡町かねぼうまち永楽町えいらくまち

千保せんぼ川左岸、羽広はびろ村の東方に位置。正保郷帳では高七八四石余、田方三七町二反余・畑方一五町余、新田高三六九石余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高一千三六〇石・免四ツ三歩。寛文元年(一六六一)川崩れにより一八二石が検地引高となり、同一〇年の村御印の草高一千一七八石・免四ツ、新田高(寛文四・五年)二九石、小物成は鮭役七〇匁(退転)・鮎川役二匁・鱒役七匁(三箇国高物成帳)

木津村
きづむら

[現在地名]赤穂市木津

浜市はまいち村の西にある。正和二年(一三一三)九月一二日矢野やの(現相生市)の公文寺田範兼は、本領の重藤名などとともに「坂越庄内浦分堤木津村畠弐町地頭職」を子息範長に譲っている(「寺田範兼譲状」東寺百合文書)。「堤木津村」は当地にあたると考えられる。慶長国絵図には千種ちくさ川の右岸に「木須村」「きず」と並び記される。正保郷帳では田高三二七石余・畑高二五七石余。草山・新田あり。元禄郷帳の高七二四石余。宝永三年(一七〇六)の指出帳によると高七九〇石余。家数一九九・人数九六一、医者一・馬医二・紺屋一・左官一・大工六七。

木津村
きづむら

[現在地名]西区押部谷町木津おしべだにちようきづ見津みつおか二―四丁目

明石川上流の木津川流域に位置し、西は村、東は摂津国八部やたべ小河おうご(現北区)。文正二年(一四六七)在銘の磨崖仏がある。文明一〇年(一四七八)二月七日の播磨明石郡檀那村付注文(肥塚文書)に「きつ」とみえ、天正一二年(一五八四)七月一四日、羽柴秀吉は木津村(後室分)高二二八石余の知行を安宅甚五郎(信康)に認めている(「羽柴秀吉知行方目録」萩原員崇氏所蔵文書)。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると田方二六六石余・畑方一三九石余、「はへ山」あり。明石藩領押部組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると東西一〇町・南北一町、人数四六五・家数六一。

木津村
きづむら

[現在地名]海南市木津

椋木むくのき村の貴志きし川西対岸、河岸段丘面に位置する。那賀なが郡に属し、北は沖野々おきのの村、西は名草なくさ坂井さかい村に接する。村域は川岸より南の山地に細長く延び、宝年寺ほうねんじ(三一二・三メートル)も含む。「続風土記」に「南北の山足連続してこれを以て那賀名草両部の界とすといふ、後その山を平けて畠となしたれとも、今も尚堤の如き形あり、木津は材木を運送する船津の義なり、此ノ地野上川に臨みたれは、古は材木運送の地なりし故名となれるへし」と記す。延久四年(一〇七二)九月五日付の太政官牒(石清水文書)に記される野上のかみ庄三二町一反の内訳に「木津垣内北南参段」とあり、石清水いわしみず八幡宮領野上庄に含まれた地であったことがわかる。

木津村
きつむら

[現在地名]横越村木津

沢海そうみ村の西、小阿賀野こあがの川右岸に位置し、上木津村・中木津村・下木津村の三村に分れるが集落は連なり、西の二本木にほんぎ村に接する。応永一八年(一四一一)八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)に蒲原郡内として「六反廿四歩 木津安丸税所給」とみえる。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)には「百九拾六石四斗六升 横越嶋村木津相見小杉一市村共」とあり、また同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)には「三斗五升 むろや 木津村十右ヱ門」とある。開発は天正年間(一五七三―九二)といわれ、正保国絵図は木津村とのみ記し、沢海藩領。元禄郷帳は上木津村一〇五石・中木津村二二九石一斗余・下木津村一八一石八斗余とある。

木津村
こつむら

[現在地名]東吉野村大字木津

高見たかみ川右岸、伊勢南街道沿いの街村。元禄郷帳に「木津こつ村」と訓ずる。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)によると、鷲賀わしか三ヵ郷のうちに「木津郷」があり、興福寺大乗院領となっていた。戦国期には、小川・芳野両氏の支配勢力の競合する状況にあったが、天文期(一五三二―五五)の下司は平野ひらの(現大字平野)の松山氏であった。彼は鷲賀三ヵ郷の支配にも任じていたようである。

木津村
きづむら

[現在地名]北区淡河町木津おうごちようきづ

美嚢みなぎ郡に属する。淡河川中流左岸の山間に位置し、西は南萩原みなみはぎわら村。有馬ありま街道が通る。慶長国絵図に村名がみえ、寛永四年(一六二七)には田方一〇八石余・五町六反余、畑方三五石余・四町二反余、屋敷高六石余・六反余(美嚢郡誌)。正保郷帳によると田方一〇〇石余・畑方三四石余、「はへ山」あり。

木津村
こつつむら

[現在地名]犬山市木津

北は木曾川に面し、東は犬山いぬやま村、南は上野かみの村、西は北山名きたやな(現丹羽郡扶桑町)に接する。成瀬隼人正采地村。高一二二石余、田二反九畝余・畑二一町五反六畝余。寛文一一年(一六七一)の戸数二六、人数一四九(寛文覚書)。「徇行記」によれば「高ニ準シテハ戸口多ク佃力足レリ、小百姓ハカリニテ貧村」であった。

木津村
こうづむら

[現在地名]松任市木津・みずほ一―二丁目

今西いまにし村の東に位置。正保郷帳では同村と連記されている。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(新松任町史)によると高一千七三八石、免六ツ、小物成はなし。寛文年間の家高数二〇・百姓数五五(高免付給人帳)。用水はごう用水を利用。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報