デジタル大辞泉
「露の五郎兵衛」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
Sponserd by 
つゆの‐ごろべえ‥ゴロベヱ【露の五郎兵衛】
- 江戸前期の落語家。貞享・元祿(一六八四‐一七〇四)頃、京都の祇園、四条河原、北野天満宮などの盛り場で辻咄を興行し、また、招かれて夜談義を講じた。もと日蓮宗の談義僧ともいう。上方落語の祖とされる。著に咄本「軽口露がはなし」「軽口あられ酒」「露休置土産」など。元祿一六年(一七〇三)没。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
Sponserd by 
露の 五郎兵衛(2代目)
ツユノ ゴロベエ
- 職業
- 落語家
- 肩書
- 上方落語協会会長
- 本名
- 明田川 一郎(アケタガワ イチロウ)
- 別名
- 前名=露の 五郎(ツユノ ゴロウ),芦の家 春一,桂 春坊,桂 小春団治,別名=一輪亭 花咲,一寸 露休(チョット ロキュウ)
- 生年月日
- 昭和7年 3月5日
- 出生地
- 京都府 京都市上京区下加茂
- 学歴
- 汕頭日本東国民学校高等科卒
- 経歴
- 京都市で生まれ、父を知らず、母の実家で育つ。少年時代に映画に子役として出演し、羅門光三郎主演の「暴れだした孫悟空」では小さくなった孫悟空役を演じた。祖父が中国へ渡り汕頭で日本料理店・加茂川を開くと、前線部隊の慰問団の一員として舞台に立った。昭和19年米軍機の機銃掃射に遭い、手を引いていた下級生が撃ち殺されたが、自身は危うく難を逃れた。21年京都に引き揚げると知人を頼って芝居の世界に入り、中村魁幸一座、瀬川信子劇団を経て、芦の家雁玉率いるコロッケ劇団に入り芸名・芦の家春一を名乗った。22年15歳の時に2代目桂春団治から“落語家にならへんか”と声をかけられたが落語を聞いたことがなかったため断ると、雁玉と林田十郎から“なんちゅうもったいない”と説得され、改めて春団治に入門、春坊の名をもらった。師の没後、小林一三が作った宝塚若手落語会に加わり、同会が消滅すると宝塚新芸座で芝居を始めたが、33年誤って10メートル下の舞台の地下に転落する事故に遭い、約2年間の寝たきり状態が続いた。その後、落語の世界に復帰し、35年小春団治と改名。43年2代目露の五郎を襲名。平成6〜15年上方落語協会会長。17年2代目露の五郎兵衛を襲名、落語の祖とされる大名跡の300年ぶりの復活となった。古典も新作もこなし、特に怪談を得意として“怪談の五郎”と呼ばれた。一方、消滅しかけていた大阪仁輪加(にわか)の芸も学び、仁輪加師でもあった。著書に「上方落語夜話」「なにわ橋づくし」「五郎は生涯未完成」などがある。
- 受賞
- 紫綬褒章〔平成12年〕,旭日小綬章〔平成18年〕 大阪文化祭賞〔昭和44年〕,大阪府民劇場奨励賞〔昭和48年〕,芸術祭賞〔昭和60年〕「露乃五郎の会」,大阪市民文化功労表彰〔平成5年〕,上方お笑い大賞(審査員特別賞)〔平成6年〕,西宮市民文化賞〔平成10年〕,兵庫県文化賞〔平成10年〕,大阪府知事表彰〔平成12年〕
- 没年月日
- 平成21年 3月30日 (2009年)
- 伝記
- 落語「通」入門おかげさんで―落語家露の五郎とともに上方落語のはなし 桂 文我 著明田川 紗英 著露の 五郎 著(発行元 集英社東方出版朝日新聞社 ’06’99’92発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
Sponserd by 
露の五郎兵衛
つゆのごろべえ
落語家。
[関山和夫]
(1643―1703)もと日蓮(にちれん)宗の僧で、露休(ろきゅう)という僧名を用い、辻(つじ)談義(辻咄(ばなし))を得意とした。寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)・天和(てんな)・貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)(1661~1704)のころ約30年にわたって、京都の祇園真葛ヶ原(ぎおんまぐずがはら)や四条河原(しじょうがわら)、北野天満宮などで辻咄を演じて人気があった。『露がはなし』(1691)、『露新軽口ばなし』(1698)、『露五郎兵衛新ばなし』(1701)、『露休(ろきゅう)ばなし』(1702ころ)、『露休置土産(みやげ)』(1707)などの著書を残し、上方(かみがた)咄の祖といわれる。
[関山和夫]
(1932―2009)本名明田川一郎。1947年(昭和22)2代桂春団治(はるだんじ)に入門。桂春坊、桂小春団治を経て1968年2代露の五郎襲名。怪談や人情咄を得意とした。『なにわ橋づくし』ほか、著作も多数ある。1994年(平成6)~2003年まで上方落語協会会長。2000年紫綬褒章(しじゅほうしょう)受章。2005年2代目五郎兵衛を襲名。
[関山和夫]
『武藤禎夫・岡雅彦編『噺本大系 第6巻』(1976・東京堂出版)』▽『武藤禎夫編『未刊軽口咄本集』上下(1976・古典文庫)』▽『2代目露の五郎著『なにわ橋づくし』(1988・朝日新聞社)』▽『2代目露の五郎著『上方落語のはなし』(1992・朝日新聞社)』▽『2代目露の五郎著『露の五郎川柳句集』(1997・東方出版)』▽『2代目露の五郎著『五郎は生涯未完成――芸と病気とイエスさま』(2005・マナブックス)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
Sponserd by 
露の五郎兵衛 (つゆのごろべえ)
生没年:1643-1703(寛永20-宝永1)
江戸前期の噺家。前半生の経歴は不明であるが,もと日蓮宗の説教僧であったらしい。僧名は露休。延宝・天和(1673-84)のころから京都の祇園真葛原,四条河原,北野天満宮などで辻咄を演じ,辻談義の名人といわれた。持ち前のすぐれた滑稽の表出力と巧妙な話芸による軽口(かるくち)咄が人気を呼び,上方落語の元祖といわれる。咄本として《露がはなし》(1691),《露新軽口はなし》(1698),《露の五郎兵衛はなし》(1701ごろ),《露休はなし》(元禄末),《露休置土産》(1707)などが知られている。俳人の松尾芭蕉や各務(かがみ)支考がその話芸を高く評価していたことが支考の《本朝文鑑》に見える。そのほか五郎兵衛のことは山東京伝《近世奇跡考》,柳亭種彦《足薪(そくしん)翁記》,喜多村信節《嬉遊笑覧》などにも見えている。軽口咄を興行として成功させ,後世の上方落語隆盛の基を開いた功績は大きい。
執筆者:関山 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
Sponserd by 
露の五郎兵衛
没年:元禄16(1703)
生年:寛永20?(1643)
元禄期,京都で活躍した辻噺の祖。もと日蓮宗の談義僧であったが還俗し,貞享のころ(1684~88)から京都の北野天満宮,真葛が原,四条河原などで,往来の聴衆を前に笑い話や歌舞伎の物真似,判物 を演じた。また日待,月待などの余興座敷に呼ばれ,ときには貴人に招かれることもあった。のちに法体して露休。彼の咄は『露がはなし』などにまとめられ,それらは軽口本と呼ばれた。不特定の庶民に笑い話を提供した点で大名に仕えたかつての御伽衆とは異なり,上方落語の祖と呼ばれる。<参考文献>肥田晧三「大阪落語」(『日本の古典芸能9/寄席』)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
Sponserd by 
露の五郎兵衛(2代) つゆの-ごろべえ
1932-2009 昭和後期-平成時代の落語家。
昭和7年3月5日生まれ。昭和22年2代桂春団治に入門して春坊を名のる。35年2代桂小春団治,43年2代露乃五郎を襲名,62年「露乃」を「露の」にあらためる。艶笑種,怪談噺を得意とし,仁輪加(にわか)の普及・保存にもつとめる。平成6年上方落語協会会長。17年2代露の五郎兵衛を襲名。平成21年3月30日死去。77歳。死後の24年上方演芸の殿堂入り。京都出身。本名は明田川一郎。著作に「上方落語夜話」。
露の五郎兵衛(初代) つゆの-ごろべえ
1643?-1703 江戸時代前期の落語家。
寛永20年?生まれ。もと日蓮宗の談義僧。還俗(げんぞく)して京都の祇園(ぎおん),四条河原,北野天満宮などの盛り場で辻咄(つじばなし)を演じ,上方落語の祖といわれる。口演をあつめたものに「軽口露がはなし」「露新軽口はなし」などがある。のちふたたび剃髪(ていはつ)して露休と号した。元禄(げんろく)16年5月9日死去。61歳?
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 
世界大百科事典(旧版)内の露の五郎兵衛の言及
【談義】より
…また民間には僧形をした在俗の芸人も現れ,仏教的な咄(はなし)をして喜捨を受けた。元禄(1688‐1704)のころ京都の露の五郎兵衛は僧形で咄をして露休という僧名も用いたが,彼の[辻咄]は辻談義ともいわれた。寺院での談義は朝,昼,夜におこなわれていたが,しだいに娯楽化して話芸的要素を濃くした。…
【辻咄∥辻噺】より
…仏教界の辻説法が芸能化したもので,元禄(1688‐1704)のころには辻談義([談義]は説法・説教の異称)といっていた。各務(かがみ)支考の《本朝文鑑》辻談義説の条に京都の噺家の[露の五郎兵衛]について〈世ニ云フ辻噺ノ元祖ナリト〉とある。寺社の縁日,涼み場,夜店など人が大勢来る場所に席を設けて咄をした。…
【落語】より
…その後まもなく,〈[はなし]〉を〈[軽口]〉というようになるとともに,はなしのおもしろさを効果的に結ぶ〈落ち〉の技術もみがかれていった(後出〈落ちの型〉を参照)。
[辻咄時代]
落語が飛躍的に進歩したのは,延宝・天和年間(1673‐84)ごろから京都で辻咄(つじばなし)をはじめた[露(つゆ)の五郎兵衛]と,おなじころ江戸で辻咄をはじめた[鹿野(しかの)武左衛門],貞享年間(1684‐88)ごろから大坂で辻咄をはじめた[米沢彦八]という3人の職業的落語家の功績だった。 辻咄というのは,街の盛場や祭礼の場によしず張りの小屋をもうけ,演者は広床几(ひろしようぎ)の上の机の前で口演し,聴衆は床几に腰をかけて聴くという形式をとり,晴天に興行して道ゆく人の足をとめ,咄が佳境にはいったころを見はからって,銭を集めて回るという庶民的演芸だった。…
※「露の五郎兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
Sponserd by 