青年男子によって組織された年齢集団。成年女子による娘組に対応する。子供組、若者組、中老(ちゅうろう)組、年寄組と階梯(かいてい)的な年齢集団の中核を占め、他の年齢集団を欠いて若者組だけ存在する場合もみられた。その起源は、鎌倉時代の郎党(ろうとう)など若者組織に求められるとされる。しかし、さらに古くさかのぼるとする説も少なくない。明治30年代以後、政府による地方改良運動により青年会、ついで青年団へと変遷していったが、なお長く旧来の伝統をとどめた。
[竹田 旦]
若者組のほか若衆組、若い衆組、若者連中、若組、若連などもあった。東北地方では若者契約、若衆契約、また若勢(わかぜ)、若勢団、近畿地方では若中(わかじゅう)、九州地方では若手、若手組、また二才(にせ)組、二才衆などともよばれた。ほかに非常番、自身番、消防、宮守、宮世話など機能に注目した名称もあった。
[竹田 旦]
若者組はそれ自体が階梯的な年齢集団であるとともに、内部組織もきわめて階梯的であった。新入りは小若い衆などとよばれて使い走りの役を勤め、やがて中(ちゅう)若い衆、中老などを経て、宿老(すくろう)などの上層へと進むもので、若者頭その他の役員は通常、最高年齢層から選ばれた。若者組の秩序は個人の能力や出自、財産などとは関係なく、ただ年齢と経験による序列をもって保持され、規律を破り、秩序を乱した者には制裁が加えられた。もっとも重い制裁は、はちぶ、帳外し、組はぶきなどの絶交、除名で、そのときには詫(わ)び証文を入れるとか、仲介者をたてるとかして謝罪しなければ復帰はかなえられなかった。
[竹田 旦]
消防、警防や難破船救助にあたったり、祭礼の主役を勤めたりして、若者組は村落自治の一端を担うのが常であった。また山村では植林に、漁村では網漁にと、生産活動に率先する例も珍しくなかった。とくに婚姻に対する関与は著しく、若者頭が出席しなければ婚礼は始まらないという土地さえ存在した。しかしそれらの関与は、若者組そのものというよりは、組員の小集団ないし個人としての性格が濃く、寝宿における自治や「嫁盗み」の習わしも、友人仲間による結合を表現したものにほかならなかった。
[竹田 旦]
数え年15歳ごろの加入が多かった。それは、成人に達し一人前になる年輩と一致し、若者組加入をもってそのまま成年式にかえる場合もみられ、いわゆるイニシエーションinitiation(入社式)の意味をもっていた。加入の儀式は正月の初寄合とか祭礼の前などに若者宿で行われ、新入りは先輩の居並ぶ前に座らされ、若者組の一員として守るべき条項を教え諭された。若者組では、礼儀、作法、身分、風俗に関して厳しく律せられた。新加入にあたり種々の試練が課せられ、心身とも早く一人前になるよう各種の訓練が行われた。それは、若者組に加われば、村寄合や村仕事、祭礼に参加することが許され、また寝宿に通い、恋愛・結婚へと進むことも認められたからである。加入は村内青年全員の義務とするのが常であったが、庄屋(しょうや)、名主(なぬし)や網元の子には加入を免除するとか、また長男に限り加入を認めて次男以下を排除するなど、若者組加入をめぐる権利・義務にも所によって差異がみられた。加入に比して脱退は簡単で、大掛りな儀礼はみられなかった。ただ脱退の条件、年齢は所によりかならずしも一様でなく、結婚するか25歳になればという場合が多かったが、35~42歳まで脱退を許さぬ土地もあった。高年齢まで若者組にとどめたのは、消防や警防などの任務のため一定人員を確保しておく必要からで、東北地方に広くみられた。
[竹田 旦]
若者組は集会、訓練、作業、娯楽、寝泊りなどのため宿をもつのが常で、一般に若者宿とよばれた。娘組の娘宿にあたる。寝泊りのための宿は寝宿、泊り宿とよばれた。これらの宿として専用の建物をもたない場合は、社寺や若者頭(がしら)の私宅をあてたが、寝宿には民家の一室を借りるのが普通であった。若者宿は若者組活動の起点ともいうべき場所で、ある意味では家庭や村落から離れた別天地の観を呈した。しかし寝宿は若者組の統制から外れ、ツレ、ホウバイ、ドシなど、これを利用する若者仲間の自治にゆだねられた土地も多かった。一般に未婚男女の交際に対して若者組はわりあい寛大であった。
[竹田 旦]
『中山太郎著『日本若者史』(1930・春陽堂書店)』▽『大日本聯合青年団調査部編・刊『若者制度の研究』(1936)』▽『瀬川清子著『若者と娘をめぐる民俗』(1972・未来社)』▽『平山和彦著『青年集団史研究序説 上巻』(1978・新泉社)』▽『天野武著『若者組の研究』(1978・柏書房)』▽『天野武著『若者の民俗――若者と娘をめぐる習俗』(1980・ぺりかん社)』
青年男子の年齢集団。子供組の上位に位置し,娘組と対応する。明治中期ごろまで全国の村落や一部の町に存在したが,まれには昭和初期までその形態をとどめた例もある。呼称としては,東北地方の日本海側の〈若勢(わかぜ)〉,東北から九州北部までの日本海側に点在する〈若手(わかて)〉,九州南部から沖縄にかけての〈二才(にせ)〉などがあるが,若者,若い衆,若者仲間,若者組,若連中などと呼ぶ所が多く,このうち若者組の名が学術用語化した。加入は,一般に数え年15~17歳ごろの成年式直後であるが,他所から来住した婿養子などは,年齢を問わず加入の義務があった。加入式が成年式に相当する形態もあり,これが古態とみられる。いずれにせよ,かつての若者は若者組へ加入することで地域社会から一人前と認められた。
若者組には,構造と機能の面でいくつかの形態がある。最も注目すべき点は加入制限の有無と,脱退の年限ないしその条件である。後者については,結婚を機会に脱退するものと,25,30,35,42といった各年限を設けるものとがあった。25歳と42歳はいわゆる厄年である。ところで,往時の男子の結婚年齢は25歳以下が多かったから,結婚による脱退と25歳での脱退の双方を合わせて青年型(A型),25歳以上での脱退を青壮年型(B型)と類型化することができる。これを加入制限の有無と照合すると,A型は加入制限がなく,一定年齢に達した兄弟は全員が加入する型に対応し,一方のB型は,長男のみの加入,つまり1戸1人加入型にほぼ対応する。ただしA型にも,長男のみは1,2年早く加入が許される例や,B型にも長男が脱退すれば次男が引き続いて加入するもの,その他,高い家柄の子弟が加入を免除される例など,例外型もわずかながら存在した。北海道を除いた分布をみると,A型は西日本6に対し東日本4,B型はその逆の割合を占めていた。つまり,家格制の発達がやや弱かった西日本にA型が,その発達が比較的強かった東日本にB型が対応していたといえる。A,B両型とも集会所としての若者宿をもつが,宿泊所としての若者宿ないし寝宿はA型にやや多い。加入式は集会所で行われた。新加入者は酒1升を持ち,保証人としての知人や先輩につきそわれて会場へ赴き,そこで若者頭から訓示をうけ,杯を交わす。御条目(ごじようもく)などと呼ばれる掟(おきて)を読み聞かせた地方もあるが,一般には不文律で,その内容は長上への礼儀作法が主であった。加入に際し,まれには肉体的な試練を課せられた例もある。
若者組の組織は,ふつう最年長の若者頭のほか,数名の小頭(こがしら)といった役員がおかれ,脱退直後の者が中老(ちゆうろう)として顧問役をした。さらに,B型の若者組の内部構造は明確な年齢階梯制をなしていた。つまり一定年齢により,いくつかの階層が形成され,年配序列が厳格だった。A型はその点で比較的不安定であるが,年長者には権威があり,B型と同じく加入後の2,3年間は小若い衆と呼ばれて雑役に従事し,先輩から厳しいしつけを受けたのであるから,これも広義の年齢階梯制であったとみなせる。
若者組の機能は,(1)信仰行事,(2)民俗芸能,(3)村仕事,(4)婚姻関係,(5)教育・制裁,(6)娯楽その他,に大別される。(1)は,とくに氏神祭礼の神輿(みこし)かつぎ,山車(だし)ひきのほか,幟(のぼり)立てや屋台づくりといった分野が若者組の任務であった。(2)は,(a)獅子舞,太鼓踊,念仏踊,盆踊などの風流(ふりゆう),(b)歌舞伎,浄瑠璃,三番叟(さんばそう)などの芝居,(c)裸祭,競馬,相撲,(d)お囃子,綱引きなどに分けられる。(3)の村仕事としては,地域社会の消防,警備,災害時の救援や修理,医者迎え,漁村での舟の上げ下ろしなどがある。消防は幕末から明治期にかけ若者組から分離した。沿海地方では難破船の救助活動がとくに重要であった。(4)の婚姻関係の役割は娘組の監督や指導,若者への性教育,婚礼への関与など。(5)の教育とは,年少者に対するしつけの意味で,通常は制裁を伴った。制裁は家族に及んだり,いやがらせという形で一般住民になされることもあった。(6)の娯楽は私的なもので,力石をかつぐことや博奕(ばくち)などであるが,これらは本来は卜占(ぼくせん)の意味をもっていた。以上の諸機能は,A,B型にほぼ共通しており,とくに(1)は若者組の主要な役割であった。ただし(4)の婚姻をめぐる諸慣習は主としてA型に顕著であり,それらは寝宿を拠点として行われることが多かった。なお,若者組が文献史料に登場するのは江戸時代の初期以降のことであり,これは郷村制の成立との関連を思わせるが,さらに古くから存在していた可能性も否定できない。明治時代になると,若者組とその諸慣習は陋習(ろうしゆう)として識者からの指弾を受けるところとなり,中期ごろからしだいに青年会や青年団へと改組・改称されていった。
→年齢集団
執筆者:平山 和彦
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若連中・若者仲間とも。青年男子によって構成される年齢集団の一つ。厳格な加入儀礼や若者条目・役職秩序など定型的な組織をもつ若者組がある一方,同年代の仲間集団のようなものもある。また構成員を1戸1人に制限するもの,一定年齢に達した男子全員が加入するものなどがある。加入年齢は共通してほぼ15歳だが,退会時期はさまざまで,結婚を機に退会するもの,既婚者や壮年層も加わるものなどがある。村行事への奉仕,共有山の管理,村内警備,海難救助など大きな役割をになう若者組がある一方,若者宿を中心にした婚姻統制の機能を主とするものもある。近代に官製の青年会・青年団へ再編されたが,従来の性格を維持した若者組を残す村落も多かった。
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…社会における一人前の一つの大きな指標が,他人に対し時や場面に応じて適切な挨拶ができるかどうかにあった。したがって,挨拶は,ムラにおける一人前への教育機関であった若者組での重要な訓練事項であった。伊豆地方の若者組では,加入に際して御条目という心得を言い渡すが,その中には必ずのように挨拶に関する項目があった。…
…再婚の事例のほか,不義を犯した妻,間男された亭主,亭主をなぐったじゃじゃ馬女房なども,シャリバリに狙われるところとなった。共同体の規範を守る役目は若者の手にゆだねられることが多かったから,シャリバリにおいても若者組が中心的な役割を果たす。その方法としては,相手の家の窓下に押しかけ,一晩中角笛を吹き鍋釜を打ち鳴らすとか,ロバの背に乗せ,大騒ぎをしながら村中ひきまわすといった形がとられた。…
…【高木 昭作】
[村落社会における中老]
伝統的村落では,壮年男子を構成員とする年齢集団をさし,宿老(しゆくろう)ともいう。全国的に分布するが,若者組(わかものぐみ)(若い衆,若連中)に接続し,若者組を年限がきて脱退した者を構成員とする,独立した組織の所と,若者組内部の組織として,若者組の年長者層をいう所とがある。前者は西日本に,後者は東日本に多い。…
…ヨーロッパではいまのところ,はっきりしたものは報告されていないが,ギリシアのスパルタには年齢集団があったといわれる。 日本では明治期の青年団以前に,全国各地に若者組や娘組がみられたが,ことに中部から西南日本の漁村社会の若者組が民俗学者によって早くから研究された。しかしこれらは広義の年齢集団としてとりあげられはしたが,年齢階梯制という理解には欠けていた点がある。…
… こうした信仰的機能が民俗芸能伝承の第1とするなら,第2は各地域社会の成人教育に果たした教育的機能である。すなわち,昔の村落では,子供組,若者組と年齢に応じたグループを組織して身心の鍛練に努めたが,そのとき教科に当てられたのが獅子舞,神楽,太鼓踊などの芸能で,祭りを迎えるまでの一定期間,宿に籠って先輩から厳しい稽古(けいこ)を受ける。その訓練を通じて一人前の人間としての精神と肉体をつくり上げるのであるが,その期間の先輩・後輩の交流を通じて,後輩は村と芸能の歴史を知り,また村落の構成員としての連帯感を強くもつ。…
…第4はこうした来訪神信仰の担い手の組織および儀礼がきわめて秘儀的性格をもっていることであり,なかにはアカマタ・クロマタのように秘密結社的組織をもつものもある。こうした秘儀的組織は若者たちによって構成される例が多く,若者組や若者宿の習俗と密接な関連をもつといえる。多くの来訪神が女性や子どもたちをしばしば威嚇するのはこうした性格にもとづくものである。…
…若者宿という呼称は,(1)若者組の集会所,(2)若者たちの宿泊所,またはたむろする家屋,の双方に対して用いられる。(1)は若者組には必ず付属し,常設と臨時の2種があるが,一般的には民家の一部を借用するもので,ただ単に宿(やど)と呼ばれることが多かった。…
※「若者組」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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