日本歴史地名大系 「革島庄」の解説
革島庄
かわしまのしよう
山陰道が洛中を出て桂川を越え、
本庄については嘉暦元年(一三二六)二月(史料どおり)と記された革島庄条里坪々図がある。かつては革島庄とは散在する名田畑と考えられていたが、この絵図には線で囲んだ部分があり、革島惣庄の領域を示すものと理解される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
山陰道が洛中を出て桂川を越え、
本庄については嘉暦元年(一三二六)二月(史料どおり)と記された革島庄条里坪々図がある。かつては革島庄とは散在する名田畑と考えられていたが、この絵図には線で囲んだ部分があり、革島惣庄の領域を示すものと理解される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市南西部の公家(くげ)領荘園(しょうえん)。現在の京都市西京区川島。藤原頼長(よりなが)領から保元(ほうげん)の乱(1156)により後院(ごいん)領に付され、のち七条院領となる。1326年(嘉暦1)の差図(さしず)では、葛野(かどの)郡南部の牟自名(むじな)・島田・殖槻(うえつき)・荒木の各里と乙訓(おとくに)郡胸広(むなひろ)里に広く散在していた。1253年(建長5)近衛(このえ)家所領目録にみえ、以後南北に分割、近衛家領は「革島南庄」を称する。1313年(正和2)の南庄は12名公田(こうでん)9丁5反60歩、年貢米59石9斗7升余とある。なお室町期には別に山科家(やましなけ)領「河島庄」があった。
南庄下司(げし)の革島氏は、鎌倉期以後現代に至るまで一地域に定着した畿内(きない)土豪の姿を、史料(革島家文書)によって確かめられる全国でも希有(けう)な例として著名である。
[武田 修]
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