革島庄(読み)かわしまのしよう

日本歴史地名大系 「革島庄」の解説

革島庄
かわしまのしよう

山陰道が洛中を出て桂川を越え、西岡にしのおか丘陵に入る手前の地域に成立した公家領荘園。仁平三年(一一五三)左大臣藤原頼長の春日詣に際して、屯食一具を負担する所領として「革島」とみえるのが早い(台記別記)。保元の乱で「川島庄」を含む頼長の所領は没収、保元二年(一一五七)後院領に付され(兵範記)、その後、七条院領に編入されている(東寺百合文書)。しかし、没収されたのは一部であったのか、建長五年(一二五三)近衛家所領目録(近衛家文書)に依然として「革嶋」がみえる。また、この目録には「京極殿領」であったことが記されており、頼長の曾祖父師実のときにはすでに摂関家の所領であったことがわかる。これ以後南北に分割されたらしく、近衛家領は「南庄」を称するようになる。正和二年(一三一三)の革島南御庄名寄帳(革島文書)では、一二名九町五段六〇歩の公田からなっている。荘園管理は在京の預所の下に下司として西岡の土豪革島氏があたった。なお室町期には別に山科家領の「河島庄」が存在していた(山科家礼記ほか)

本庄については嘉暦元年(一三二六)二月(史料どおり)と記された革島庄条里坪々図がある。かつては革島庄とは散在する名田畑と考えられていたが、この絵図には線で囲んだ部分があり、革島惣庄の領域を示すものと理解される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「革島庄」の意味・わかりやすい解説

革島庄
かわしまのしょう

京都市南西部の公家(くげ)領荘園(しょうえん)。現在の京都市西京区川島。藤原頼長(よりなが)領から保元(ほうげん)の乱(1156)により後院(ごいん)領に付され、のち七条院領となる。1326年(嘉暦1)の差図(さしず)では、葛野(かどの)郡南部の牟自名(むじな)・島田・殖槻(うえつき)・荒木の各里と乙訓(おとくに)郡胸広(むなひろ)里に広く散在していた。1253年(建長5)近衛(このえ)家所領目録にみえ、以後南北に分割、近衛家領は「革島南庄」を称する。1313年(正和2)の南庄は12名公田(こうでん)9丁5反60歩、年貢米59石9斗7升余とある。なお室町期には別に山科家(やましなけ)領「河島庄」があった。

 南庄下司(げし)の革島氏は、鎌倉期以後現代に至るまで一地域に定着した畿内(きない)土豪の姿を、史料(革島家文書)によって確かめられる全国でも希有(けう)な例として著名である。

武田 修]

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