日本歴史地名大系 「韮山代官所跡」の解説
韮山代官所跡
にらやまだいかんしよあと
〔前期・中期韮山代官〕
天正一八年(一五九〇)の小田原攻めの際、江川英吉は韮山城に籠城したが、嫡男英長は徳川家康の手に属していた。英長は三島滞陣中の家康にお万の方(養珠院)を配し、寵愛を得たことから北条氏との和議を進めて功あり、旧領安堵を得たという。その後、お万の方に頼宣・頼房が誕生し、頼宣が将軍徳川秀忠の夫人阿江の方(淀君の妹、崇源院)の要請で養子となると、英長の立場はよくなり、慶長元年(一五九六)五千石支配代官を命じられ、物成一〇分の一を給せられた。英長は代官ながら同六年の韮山城主内藤信成転封後に韮山城一帯を囲込み、酒造を継続した。家臣の養いと称して秀忠から三千俵を借用、そのうえ年貢米も献上用酒造米として流用を続けた。これらはあくまでも借用であり、秀忠・頼宣などが存命のうちは猶予されていたが、やがて幕府は返済を迫るようになり、末代まで続く重い負債となった。
英長は寛永九年(一六三二)七二歳で没し、英政が継いだが翌一〇年没したため、その子英利が八歳で継いだ。この間太郎左衛門の名は襲名となる。英利が寛文六年(一六六六)に没し、英暉が代官となったが、この頃になると戦国以来天下に響いた銘酒「江川」も上方の大量生産の新酒におされてブランド性を失った。ついに献上を打切って、元禄六年(一六九三)切米一五〇俵を給されて代官職に専念することとなった(以後、享保八年までを中期韮山代官とする)。すでに正保(一六四四―四八)の禁令で代官の支配地への私的貸付や商売が厳禁されたのに対し、酒造と私的貸付を行いえたところに江川氏の特殊性がみられる。英暉は支配地を伊豆・相模・武蔵一〇万石に拡大、宝永元年(一七〇四)に没した。後を継いだ英勝は享保八年(一七二三)
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報