寺家村(読み)じけむら

日本歴史地名大系 「寺家村」の解説

寺家村
じけむら

[現在地名]東広島市西条さいじよう町寺家

西条盆地北部、米満よねみつ村の南に位置する。北東に竜王りゆうおう(五七五・一メートル)、西に団子だんご(三二九・一メートル)があり、米満村から南下した黒瀬くろせ川が村内平地部を流れ、途中で東に向きを変えて御園宇みそのう村に至る。

地名は建武三年(一三三六)三月八日の桃井義盛下文(熊谷家文書)にみえ、「西条郷内寺家分地頭職」が熊谷直経に預け置かれた。室町・戦国時代は大内氏の治下にあり、応仁の乱で鏡山かがみやま城の攻防に功のあった毛利豊元が寺家などを与えられ(文明七年一一月二四日付「毛利豊元譲状」毛利家文書)、永正六年(一五〇九)には神保信胤が宍戸四郎次郎から買得した「寺家村内国松名四貫文」を大内氏から安堵されている(千葉文書)。当村南西部にあって近世吉川よしかわ村の飛郷となった国松くにまつが国松名の遺称であろう。大永三年(一五二三)八月一〇日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「寺家村 三百貫 諸給人知行」で、うち三五貫が阿曾沼氏知行とある。阿曾沼氏のほかに鏡山城城番蔵田房信の知行分も三〇貫あったが、同城落城後は尼子氏方に寝返った毛利氏に与えられ、毛利氏から粟屋元秀に宛行われた(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)


寺家村
じけむら

[現在地名]珠洲市三崎町寺家みさきまちじけ

粟津あわづ村の北にあり、山伏やまぶし(嶽山とも)の南斜面から海岸部までを村域とする。須須すず神社と高勝こうしよう寺がある。「能登名跡志」によれば、三崎権現(現須須神社)の門前にあるので寺家の名があるといい、宿とまり崎・あい(遭崎)金剛こんごう崎の一里沖に姫島・神島・鬼島があり、「此所において三崎権現神軍ありて第六天の魔軍と戦ひ給ふこと度々あり」と記す。中世は方上かたかみ保の内、近世は三崎郷の首邑で、内浦街道と外浦街道の合流点であるとともに、海上交通の要所・難所であった(→狼煙村。垣内の塩津しおつ上野うわのよしうらはいずれも浦方で、とくに塩津が注意される。正保郷帳に村名がみえ、高四六六石余、田二四町一反余・畑六町九反余、新開高一二六石余(免三ツ)。承応三年(一六五四)の能登奥両郡収納帳では草高五五三石余、免四ツ五厘、夫銀三一三匁余。寛文一〇年(一六七〇)村御印の草高六一九石、免四ツ五歩、新開高七石余、小物成は山役二七二匁、外海船櫂役三五匁(出来)・猟船櫂役一〇二匁余(うち七匁余が出来)・間役一九〇匁(ほか五七匁余が退転)・釣役六匁(出来)・地国并他国入猟役七五匁(出来)、なお敷借本米・利足は一九石余であった(三箇国高物成帳)


寺家村
じけむら

[現在地名]緑区寺家町・鴨志田かもしだ

東側の谷本やもと川対岸は早野はやの(現川崎市麻生区)上鉄かみくろがね村で、早野村との間に橋が架かる(風土記稿)。南は鴨志田村、西から北にかけては多摩郡三輪みわ(現東京都町田市)都筑つづき下麻生しもあさお(現麻生区)に接する。全体丘陵がちで、西部に山田谷やまだやと弥二郎谷やじろうやと熊野谷くまのやとの谷戸がある。

天正九年(一五八一)七月二八日の大曾根飛騨守宛の北条家着到定書写(県史三)によると、「寺家鴨志田」二七貫二〇〇文の地から四人の兵役が命じられている。寺家・鴨志田の小領主大曾根氏は、江戸時代には当村の名主を勤めている(横浜市史)。文久二年(一八六二)の申渡(県史八)によると、大曾根甚五左衛門に永代苗字免許の下知状が出されている。


寺家村
じけいむら

[現在地名]滑川市寺家町

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇端部に位置し、北西は滑川町、北東は辰尾たつのお村、南は下小泉しもこいずみ村。滑川町に隣接しているため町場化していた。「越中志徴」が引く郷村名義抄によると、村名は往古南坊なんぼう寺の寺内に村立てされたことによるとも、寺院に地子を納めて寺役に従事したことによるとも伝える。正保郷帳では高二九七石余、田方一九町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印が当地小沢家に伝わるが、表面が火災で半分ほど欠損している。同年の草高八六石、免五ツ(三箇国高物成帳)。所属組は文政八年(一八二五)加積組、天保一〇年(一八三九)以降西加積組。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は太郎右衛門、家数八九(百姓二五・頭振六四)、寺庵として浄土真宗西方称念しようねん寺・専長せんちよう寺・順覚じゆんかく寺・発願ほつがん寺など計五寺がある。


寺家村
じけむら

[現在地名]韮山町寺家

狩野かの川右岸沿いに位置し、北は四日町よつかまち村。願成就がんじようじゆ院を中心に寺が多く、「増訂豆州志稿」ではこれを村名の起源という。四日町・中条ちゆうじようとともに北条ほうじよう三ヵ村という(天保郷帳など)。近世初期は韮山城主内藤信成領、慶長六年(一六〇一)幕府領、元禄一一年(一六九八)の地方直しで同領と旗本内藤・中野・大久保・河野の四家の相給となる。宝永七年(一七一〇)幕府領が相模荻野山中藩領となり幕末に至る(韮山町史)


寺家村
じけむら

[現在地名]豊中町本山甲もとやまこう

財田さいた川とみや川の合流点地域、本大もとのおお村の北西に位置する。丸亀に通じる伊予街道が通る。本之もとの村とも称する(西讃府志)。条里制の遺称と考えられる六の坪ろくのつぼの地名がある。寛永国絵図に「本山寺家六坪」とみえ、本山もとやま郷に所属。寛永一八年(一六四一)の山崎領小物成帳では寺家村として綿九匁が載る。「西讃府志」によれば村の広さは東西一〇町三〇間・南北一九町。高八四九石余、反別は九一町五反余、うち畑一一町九反余・屋敷二町七反余。家数二三二・人数九三六、牛五七・馬四。林は三反、橋二、堰一。池は司宝池・添水池。持宝じほう(現高野山真言宗本山寺)のほか高良こうら大明神(社僧持宝院、祭礼八月一七日)今原いまはら大明神などがある。


寺家村
じけむら

[現在地名]福野町寺家

たび川右岸沿いに位置し、対岸は広安ひろやす村。城端じようはな道が通る。天保郷帳に「古者 寺家村・福野村弐ケ村」と注記される。かつて当地に七堂伽藍の寺院が栄えたのが村名の由来といわれるが、中世の度々の兵火によって焼失し、門前の住民は四散したという。日吉社の境内や前方の田の中に夫婦めおと岩・皇孫みこ塚があり、往時の寺院門柱の礎石や塔の心礎とみられる。


寺家村
じけむら

[現在地名]静岡市中田なかだ一―四丁目・中田本町なかだほんちよう馬渕まぶち三―四丁目・石田いしだ三丁目

上島かみじま村の南に位置する(天保国絵図)。寛永九年(一六三二)幕府領となり、国立史料館本元禄郷帳では幕府領と府中浅間社(静岡浅間神社)領。宝永二年(一七〇五)一部が旗本石谷領となり(「寛政重修諸家譜」など)、享保年間(一七一六―三六)には幕府領と旗本石谷・本多の二家および浅間社領の相給(同一六年駿府代官所村高帳など)。元禄郷帳では高五三八石余。旧高旧領取調帳では旗本梶野領二四五石余・石谷領六九石余・浅間社領二二二石余、伊河麻いかま神社除地一石余・吉祥寺(現曹洞宗)除地二石余。


寺家村
じけむら

[現在地名]梓川村大字梓 寺家

穴沢あなざわ山の東麓、梓川左岸段丘上に位置する。真光しんこう寺の門前集落。その称呼を「寺家」としていることから、少なくとも中世前期にさかのぼりうる集落である。初見は寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳である。慶安四年検地帳によれば、田六町九段、畑一〇町九段、村高二五〇石。特に上田の石盛は二石とされている。これに次ぐ石盛をもつ村は一・九石のなか田屋たやで、いずれも段丘下の降旗田圃ふるはたたんぼに水田をもつ村である。天明三年(一七八三)の凶作に、同じ山麓にある小室おむろ北条きたじよう大久保おおくぼ丸田まるだの諸村の破免高が村高に対して一〇―二四パーセントであるのに対して四三パーセントの破免があり、また天保四年(一八三三)の凶作には、これらの諸村の破免高が三―一五パーセントであるのに対して二七パーセントの破免、天保七年には前記の諸村が一―二二パーセントであるのに対して四一パーセントの破免がある。


寺家村
じけむら

[現在地名]鈴鹿市飯野寺家いいのじけ町・神戸かんべ四丁目

神戸宿地子じし町の南、金沢かなさい川支流の六郷ろくごう川に臨む集落。村名の由来は同所にある神宮寺(現深藕寺)に付属する村の意であると伝える。江戸時代初期は幕府領で、四日市代官の支配であった。のち石川氏入部とともに神戸藩領になったと推察される。享保一七年(一七三二)本多忠統が神戸城主となり、その領村となった。文化六年(一八〇九)の「清渚秘記」(本田善一郎氏蔵)には戸数四五、同一四年の「諸用雑記」(同氏蔵)には戸数四二、人数二一四、寺一とある。


寺家村
じけむら

[現在地名]本山町寺家

吉野川の北岸で、南下する汗見あせみ川が合流する付近の東方山麓にあり、北山きたやま村の西にあたる山村。「土佐州郡志」は「此地昔有長徳寺及社僧山之坊僧舎等、故名村歟」と記す。中世は紀伊国熊野社領吾橋あがはし庄の地。

天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳に村名がみえ、検地面積一三町六反二二代、うち田分三町九反一代四歩、畠分七町九反四七代、屋敷数二一で一町七反二三代二歩。散田分が大部分を占め、一部に山之坊領、また一筆に長宗我部家臣の給地がみられる。同年の本山郷高山切畑地検帳によれば六筆五反四一代四歩の切畑があり、すべて散田分で小麦と記される。小字「寺中」に二反二歩下ヤシキ山之坊がみられるが、慶長二年(一五九七)一〇月吉日付の国分寺千部経帳(皆山集)には奉行衆分に「本山 山之坊」がみえ、さらに秦氏政事記(蠧簡集)に「本山 庄屋二反七代山之坊」と記され、山之坊が庄屋や奉行衆の一寺として長宗我部氏に貢献していたことが知られる。


寺家村
じけむら

[現在地名]上峰村大字前牟田まえむた字寺家一・寺家二・井柳いりゆう

米多めた村の中に割り込んだ形で上米多・下米多に接する。低湿の地で、集落中には堀が四通している。慶長一六年(一六一一)の鍋島勝茂知行宛行状(坊所鍋島家文書)に「寺家分之内」とみえる。佐賀藩の藩政期には、村は蔵入地と小配分士多数の配分地が入り交じっていた(嘉永六年写の大小配分石高帳)


寺家村
じけむら

[現在地名]八尾町寺家

黒田くろだ村の北方、井田いだ川右岸にある。岩住いわずみ村の一部であったが、元和二年(一六一六)に独立した。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高四四九石余。寛政二年(一七九〇)の高も同じで、定免三ツ三歩六厘、新田高一六石余・平均免一ツ八厘五毛余、銀納畠は一千四〇一歩(一〇〇歩につき二匁または一匁五分か一匁)、小物成銀は鮎川役二匁(高物成品々手鏡)


寺家村
じけむら

[現在地名]加古川市野口町野口のぐちちようのぐち

古大内ふるおうち村の北に位置する。地下村とも記す。中央部を東西に山陽道が通る。天台宗教信きようしん寺がある。慶長国絵図には寺家村と東に五社明神(現野口神社)がみえる。正保郷帳によれば田方二〇七石余・畑方八五石余、ほかに教信寺・横蔵おうぞう(現曹洞宗)領高二〇石。


寺家村
じけむら

[現在地名]前橋市亀里町かめさとまち

北から北東にかけて阿内宿あうちしゆく村、東は善光寺ぜんこうじ村、西は阿内村。元禄郷帳に「阿内宿村分れ」として高二八五石五斗余とあり、うち高三五石は極楽寺領である。元禄二年(一六八九)には田二〇町四反余・畑五町六反余(「検地帳」前橋市役所蔵)。天明三年(一七八三)浅間山の噴火による被害は「少泥入」であったが(浅間嶽焼荒記)、長さ六〇〇間・幅六尺・深さ一丈ほどの用水堀が焼石泥で埋まってしまった(「松平藩日記」同年九月二五日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android