顕証寺(読み)けんしようじ

日本歴史地名大系 「顕証寺」の解説

顕証寺
けんしようじ

[現在地名]八尾市久宝寺四丁目

久宝寺緑地きゆうほうじりよくち公園の東側、旧久宝寺寺内町にあり、長瀬ながせ川対岸に八尾別院大信だいしん寺およびかつて当地辺りにあった慈願じがん寺がある。浄土真宗本願寺派、山号近松山、本尊阿弥陀如来。久宝寺御坊といい、開創当初は西証さいしよう寺と称した。本願寺八世蓮如が開創、初代住職は蓮如の第一一子実順。開創時期を顕証寺由緒記(寺蔵)は「第八世蓮如法印文明年中被令開基」と伝え、「本願寺通紀」には「明応年中、蓮宗主於河内久宝寺村寺、曰西証寺」とある。実順は明応三年(一四九四)生れで、蓮如が没した同八年には六歳であった。「反古裏書」に「実順ハ河内国久宝寺ニ住持、其真弟実真モ早世断絶シタマヘリ」とあるように、実順は永正一五年(一五一八)二五歳で没し、跡を継いだその子実真も享禄二年(一五二九)一三歳で早世した。

顕証寺
けんしようじ

[現在地名]河南町大ヶ塚

だいつか寺内町北西部いぬい町にある。浄土真宗本願寺派、山号近松山、本尊阿弥陀如来。大ヶ塚御坊とも称する。久宝寺きゆうほうじ村顕証寺(現八尾市)配下の大ヶ塚道場善念ぜんねん寺を前身とする。永禄初期当地に根来衆の将宗盤が築城、根来衆三、四〇人が来住していたという。永禄一一年(一五六八)織田信長の河内侵攻により当地も荒廃、根来衆が帰寺したあと村人は自衛のため法式を定め久宝寺の顕証寺を頼み、大ヶ塚道場を顕証寺の通寺(兼帯所)とした。

顕証寺
けんしようじ

[現在地名]加世田市唐仁原

国道二二六号の万世ばんせい交差点南側に位置する。浄土真宗本願寺派。等雲山と号し、本尊は阿弥陀如来。明治九年(一八七六)九月信教の自由令が発令され、鹿児島藩による真宗禁止が解除されると京都西本願寺は直ちに開教僧を派遣、当地では同年一一月から伊川通玄が布教に着手した。同一一年に「真宗本願寺派大崎浦説教所」が開設され、兵庫県印南いんなみ的形まとがた(現同県姫路市)顕証寺の住職藤等雲が看守に着任した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の顕証寺の言及

【八尾[市]】より

…市域東部は生駒山地,中部から西部は旧大和川の沖積平野である。町は,15世紀後半創建の浄土真宗本願寺派(西本願寺派)顕証寺が核となった久宝寺と,17世紀後半創建の真宗大谷派(東本願寺派)大信寺が核となった八尾の二つの寺内町に始まる。1704年(宝永1)の大和川付替え以後,平野部で新田開発が行われ,木綿,ナタネ油が作られた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」