願成就寺
がんじようじゆじ
[現在地名]日出町藤原
藤原の北部、赤松にある。赤松山と号し本尊不動明王。天台宗。当寺の創立については二つの伝承がある。養老年間(七一七―七二四)に仁聞が国東六郷に寺院を建立、さらに八坂川を渡った地にも寺院を建立したいと立願し、赤松で資材を渡河させることができたので赤松に一寺を建立した。六郷満山の最後に創建したので願成就寺と命名したという説(図跡考)と、天徳四年(九六〇)に空也が速見郡内に七ヵ寺を建立する願を立て、最後に当寺を建立して願が成就したので寺名としたという説(豊後国志)である。六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)の末山末寺二三院のなかに願成就寺の名がみえる。
願成就寺
がんじようじゆじ
[現在地名]日南市今町一丁目
広木田北部の丘上にあり、高野山真言宗。春日山と号し、本尊は弘法大師像。談義所とも通称される。江戸時代には飫肥領三大寺の一に数えられた(日向地誌)。寛政七年(一七九五)の新義真言宗本末帳では談義所とあり、無本寺で、日向国内に直末二四ヵ寺を擁していた。なお「日向地誌」には京都智積院の末寺とある。創建は伊東祐兵が飫肥に入部した直後の天正(一五七三―九二)末年で、初め飫肥城の鬼門にあたる板敷村の山腹、のちの願成就寺原に建立された。
願成就寺
がんじようじゆじ
鶴翼山南方の日杉山南東斜面中腹にある。日杉山普門院と号し、天台宗。本尊は十一面観音。寺伝によれば、聖徳太子が建立した四八ヵ寺のうち、最後に建立された寺と伝え、寺名もこれにちなむという。天正一四年(一五八六)の羽柴秀次の八幡城築城の際に現在地に移転。それまでは鶴翼山中に所在し、比牟礼社(現日牟礼八幡宮)下社の神宮寺であったといい(八幡町史)、中世の史料では成就寺ともみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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