藤原村(読み)ふじわらむら

日本歴史地名大系 「藤原村」の解説

藤原村
ふじわらむら

[現在地名]日出町藤原

日出城下・日出村の北、鹿鳴越かなごえ山塊の東に広がる丘陵地に立地し、国東くにさき道が南北に通る。江戸時代、幕府へ提出した郷帳では一村で高付されているが、日出藩では南北二村に分けていた。

〔中世〕

豊後国弘安図田帳に「近部・藤原・井手村七十町 戸次太郎時頼法名道恵」とみえ、この時期には大神おおが庄一七〇町を構成する一村で、地頭は戸次氏であった。その後文和元年(一三五二)一一月二二日の足利義詮袖判下文(大友家文書録)で「戸次筑前次郎朝(直カ)跡」の「大神・藤原庄」は、勲功の賞として田原直貞(正曇)に与えられた。以後も大神庄とほぼ同様に推移した。

〔近世〕

慶長三年(一五九八)の日出庄指出帳(東京大学史料編纂所謄写本)には名請人の居住地を示して藤原町・藤原などとみえる。同五年二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)には藤原と肩書した藤原村がみえ、高三七一石余。このほか同じく藤原と肩書された「さと(里)村」(高四五八石余)、「かたん(かくうんカ)寺・むかい(迎)の尾村」(高六九九石余)、「三条(久木)篠原村」(高六五七石余)、「あか(赤)松村」(高八七二石余)、「大津村」(高七九四石余)、「相原村」(高三二九石余)があり、これらはのちの藤原村に含まれた。また大神庄と肩書された「井手村」(高三四五石余)、日出庄と肩書された「上林村」(高四二〇石余)ものちの藤原村に含まれた。同一〇年の速見郡之内御検地帳(永青文庫)には藤原村とあり、高七千八石余、田二四三町一反余・畑三六九町八反余、物成高一千五九一石余。正保郷帳では藤原村一筆で田方一千五四四石余・畑方一千一七八石余。元禄郷帳でも藤原村一村で高付されている。


藤原村
ふじはらむら

[現在地名]藤原町藤原

鬼怒川左岸段丘上にあり、上流は川治かわじ村、対岸はたき村。川沿いを通り北東高原山方面へ向かう会津西街道の宿。村域は街道に沿って南北に細長く、北に小網こあみ伊の原いのはら、南に小原おばらなどの小集落がある。明徳五年(一三九四)三月五日の某過所写(寺社古状)に「藤原関所」とあり、興禅こうぜん(現宇都宮市)造営のための材木運搬に際して、藤原関所を通過するための過所が、宇都宮氏と推定される某から藤原代官宛に発給された。

慶安郷帳に村名がみえる。寛延二年(一七四九)から明和元年(一七六四)まで下総佐倉藩領となったのを除き(紀氏雑録続集)、ほとんどが宇都宮藩領。慶応二年(一八六六)高徳藩領。宝永八年(一七一一)の村明細帳(星七郎文書)によれば畑方のみで八六町九反余(上畑三二町二反余・中畑二六町一反余・下畑一八町余・下々畑六町八反余・屋敷三町七反余)。このうち郷分は七一町四反余、枝郷の栃窪とちくぼ分二町八反余・弐ッ屋ふたつや分四町二反余・小網分八町三反余。ほかに新畑一町九反余がある。松の御林一ヵ所・百姓林五ヵ所があり、大豆・油荏・稗の三色掛物、材木伐出しの夫役、筏組みのための藤、毎年笹板三六〇束の納入を賦課されていた。小田川で夏にとれる川海苔、忍冬の花も納めた。会津西街道を通る大名や、宇都宮藩主・家中が塩原しおばら温泉(現那須郡塩原町)へ入湯に行く途中当宿に宿泊することもあった。また将軍の日光社参など大通行の時は、高一〇〇石につき二人の割合で宇都宮へ人足を出した。家数七五(うち水呑・前地一七、隠居家四)・人数三八二、馬六九。なお枝郷の弐ッ屋は慶安郷帳に二ッ家ふたつや村とみえ、畑高九石余。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]水上町藤原

粟沢あわざわ夜後よご両村の北東、利根川最上流域に位置。集落は利根川およびその支流沿いに点在。村域は広大で、ほぼ朝日あさひ岳と武尊ほたか山を結ぶ線の以北全域を占める。北・西はひらヶ岳・丹後たんご山・巻機まきはた山などの山嶺で越後国、東は至仏しぶつ山・かさヶ岳などの山嶺で土出つちいで(現片品村)に境する。村内にも一五〇〇―二〇〇〇メートル級の山がいくつもあり、それらの谷々の沢が縦横に枝状に延び利根川に水を集める。江戸初期から橋もいくつかあり、天和元年(一六八一)郷村品々記録(小林文書)には、夜後橋(長さ一四間ほど、幅二間ほど)、西藤原橋(長さ一五間ほど、幅二間ほど)の二橋が記される。

天正八年(一五八〇)七月一日の武田勝頼判物(吉川金蔵氏所蔵文書)によると、小川可遊斎が藤原を所望したが、「先判所持之人候」ということで替地をもらっている。寛文郷帳では田方八六石余・畑方四三八石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高二千三六〇石余。宝永元年(一七〇四)沼田領村々石高書上では高三三九石余、反別は田方二四町九反余・畑方一二五町六反余。江戸後期の御改革組合村高帳では家数一二一、幕府領。当村をはじめ利根川源流域の村々は、藤原山の材木伐出しや粟沢山・阿能川あのうがわ山での鞘木伐出し、桶木作りなどの山稼を行った。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]土居町藤原

現土居町東北部の集落。東は津根つね村に、南は小林こばやし村に、西はなか村に接し、北はひうち灘に面する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「藤原村 日損所、小川有」と村名がみえる。

歴史の古い現土居町でも最古の縄文式土器が、通称広地場ひろじばから約四〇個出土し、字山道やまみちからは弥生時代の土器、石包丁が出土している。

「和名抄」にみえる宇摩郡津根郷に属したとされる。享保六年(一七二一)の伊予国宇摩郡藤原村明細帳(長野家文書)には「年号不知福島左右衛門大夫様御検地之由申伝候当時名寄帳ニテ支配仕候」とある。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]松山市藤原町ふじわらまち・藤原一―二丁目・北藤原町きたふじわらまち土橋町どばしまち永代町えいだいまち真砂まさご町・末広町すえひろまち春日町かすがまち泉町いずみまち室町むろまち・室町一―二丁目

松山平野の西平坦部に位置する農村。東は立花たちばな村、西は竹原たけわら村、南は小栗おぐり村に接し、北は城下町と斎院樋さやひ(中ノ川)で境界を分っている。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「藤原村 小川有」とある。

古代には温泉郡立花郷(和名抄)に属したと考えられる。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]宗像市冨地原ふじわら広陵台こうりようだい一―二丁目・同四―五丁目・アスティ一―二丁目

徳重とくしげ村の東にあり、南は赤木あかぎ(標高一三七メートル)を境に鞍手くらて上有木かみあるき(現宮田町)、南東は同郡倉久くらひさ(現同上)。富地原村とも表記される(地理全誌)。小早川時代の指出前之帳では藤原村の田四九町七反余(分米七六七石余)・畠一八町八反余(分大豆一〇三石余)。文禄三郡内知行方目録には鞍手郡「ふち原村」が載る。慶長九年(一六〇四)の宗像郡藤原村の検地高一千二〇七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一千二五二石余、人数五一〇(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も一千二五二石余。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]鶴岡市千石町せんごくまち

北流する苗津なえづ川西岸一帯にあり、南西は下外内島しもとのじま村。鶴ヶ岡城下南東の近郊に位置する。村の起りは地蔵堂境内に樹齢八〇〇年といわれる霊木大欅があったことから、中世にさかのぼるものとも思われ、地名の由来も藤原氏一族の落人による開村とする所伝もあるが(斎村史料)、不詳。「筆濃余理」に「船戸ノ赤川船越共、昔ハ此藤原村ニ住セル処也」とあり、あか川の流路が確定していない頃、渡船場があったと伝えられている。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]柵原町藤原

久木ひさぎ村の南、吉井川右岸に立地する。対岸はきちはら村。中世は京都北野社領で、延徳三年(一四九一)の社領目録(北野社家日記)長岡ながおか庄藤原村五名とある。守護赤松政則の押領がなされ、それを停止させるべく明応二年(一四九三)八月一五日に幕府奉行人連署奉書が出されている(同日記同月二八日条)。正保郷帳に村名がみえ、田一〇二石余・畑一六六石余。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]館山市藤原

洲宮すのみや村の南東に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一八七石余(うち田九七石余)。同一五年の里見家分限帳によると廿人衆の本間八郎の給知。正保郷帳では田高八七石余・畑高五三石余、旗本酒井領一二八石余・同高木領一二石余の相給。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では酒井領と幕府領の相給となっている。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]会津若松市一箕町いつきまち亀賀かめが

南は若松城下、北東は郷原ごうのはら村、東は大塚おおつか山を隔てて滝沢たきざわ村の端村北滝沢、北西は北柳原きたやなぎはら村・柳原新村。かつて大きな藤の古樹があったので村名としたという。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では大沼郡のうちに上藤原とあり、高一六八石余。滝沢組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高一六九石余。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]佐伯市鶴望つるみ 藤原

高畠たかばたけ村の南、番匠ばんじよう川左岸平地に位置。「栂牟礼実録」には、大永七年(一五二七)大友義鑑に攻められ栂牟礼とがむれ城主の佐伯惟治が憤死したのちも同城にとどまった忠臣中に藤原徳市の名がみえる。天正一六年(一五八八)一二月二二日に「佐伯藤原」の佐伯越前入道の代参人彦七が、同一七年一二月一四日に藤原の蔵助ほか二名が、同月二〇日に藤原の佐田宗富の内甚九郎が、同一八年三月三日に同じく宗富の内彦七ほか一名が、同一九年七月二日に藤原の衆三人がそれぞれ伊勢神宮に参詣している(「参宮帳写」後藤作四郎文書)


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]岡山市藤原・藤原西町ふじわらにしまち一―二丁目・原尾島はらおしま二丁目・藤原光町ふじわらひかりまち一―三丁目

高屋たかや村の西、南東流する百間ひやつけん川左岸の平地上にある。山陽道が通り、茶屋・一里塚があった(備前記)。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)はた郷に村名があり、寛永備前国絵図では高四七三石余、「備前記」には枝村として出屋敷が載る。


藤原村
ふじわらむら

[現在地名]六日町藤原

妙音寺みようおんじ村の西、かつら山の北西麓、西と南は法音寺ほうおんじ村、北は野際のぎわ村。正保国絵図に村名がみえ、高一六九石余。天和三年郷帳では高一九二石二斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田七町四反余・畑一七町四反余、家数一八、男七七・女五一、馬七。


藤原村
ふじはらむら

[現在地名]奈良市藤原ふじわら

八島やしま村の北方にある。西大寺田園目録に「左京東八条四里廿七八并卅二三坪内二段 字イトタ ウチワラコマカサキニアリ」とある「ウチワラ」に相当。正安二年(一三〇〇)正月の僧教専畠地寄進状(東大寺文書)に「在所八嶋郷藤原里添上郡南一条七里二十四坪」とみえる。「多聞院日記」永正三年(一五〇六)八月一六日条には「古市丹後殿在奈良、筒井足軽沙汰而古市・山村・藤原・横井・長井以下悉焼払了、則奈良へ入了」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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