日本歴史地名大系 「藤原村」の解説
藤原村
ふじわらむら
日出城下・日出村の北、
〔中世〕
〔近世〕
慶長三年(一五九八)の日出庄指出帳(東京大学史料編纂所謄写本)には名請人の居住地を示して藤原町・藤原などとみえる。同五年二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)には藤原と肩書した藤原村がみえ、高三七一石余。このほか同じく藤原と肩書された「
藤原村
ふじはらむら
鬼怒川左岸段丘上にあり、上流は
慶安郷帳に村名がみえる。寛延二年(一七四九)から明和元年(一七六四)まで下総佐倉藩領となったのを除き(紀氏雑録続集)、ほとんどが宇都宮藩領。慶応二年(一八六六)高徳藩領。宝永八年(一七一一)の村明細帳(星七郎文書)によれば畑方のみで八六町九反余(上畑三二町二反余・中畑二六町一反余・下畑一八町余・下々畑六町八反余・屋敷三町七反余)。このうち郷分は七一町四反余、枝郷の
藤原村
ふじわらむら
天正八年(一五八〇)七月一日の武田勝頼判物(吉川金蔵氏所蔵文書)によると、小川可遊斎が藤原を所望したが、「先判所持之人候」ということで替地をもらっている。寛文郷帳では田方八六石余・畑方四三八石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高二千三六〇石余。宝永元年(一七〇四)沼田領村々石高書上では高三三九石余、反別は田方二四町九反余・畑方一二五町六反余。江戸後期の御改革組合村高帳では家数一二一、幕府領。当村をはじめ利根川源流域の村々は、藤原山の材木伐出しや粟沢山・
藤原村
ふじわらむら
藤原村
ふじわらむら
松山平野の西平坦部に位置する農村。東は
古代には温泉郡立花郷(和名抄)に属したと考えられる。
藤原村
ふじわらむら
藤原村
ふじわらむら
北流する
藤原村
ふじわらむら
藤原村
ふじわらむら
- 千葉県:館山市
- 藤原村
藤原村
ふじわらむら
藤原村
ふじわらむら
藤原村
ふじわらむら
藤原村
ふじわらむら
藤原村
ふじはらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報