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香港返還 ホンコンへんかん

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百科事典マイペディアの解説

香港返還【ホンコンへんかん】

1997年7月1日をもって約1世紀半にわたって英国の植民地となっていた香港が中国に返還された。返還を決めたのは1984年12月の中英共同声明。中国は返還後も,(1)外交と防衛を除いて大幅な自治権を与え,(2)資本主義制度と生活様式も50年間は変えない,という〈一国二制度〉を認めた。
→関連項目一国二通貨制度租借地

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

香港返還
ほんこんへんかん

1984年12月に中国とイギリスが正式調印した中英共同宣言に基づき、1985年6月に香港基本法起草委員会が発足、返還後の香港特別行政区の憲法ともいうべき香港基本法の制定作業が始まった。基本法に対する香港市民の最大の関心事は、返還後にどれだけ政治的自由が保証されるかということであった。これまで政治に無関心であるといわれた香港市民が、1989年5月に中国の民主化運動を支援するため100万人規模のデモまで行った背景には、返還後への不安があったのである。そのため、直後に起きた天安門事件が香港に与えた衝撃は深刻で、海外への移民希望者が増大するなどの動揺がみられた。
 こうした状況のなか、1990年4月中国の全国人民代表大会(全人代)で香港基本法が採択され、返還後の政治的枠組みが確定した。香港政庁は返還までの限られた時間のなかで政治の民主化を浸透させようと、1991年9月立法評議会の直接選挙を実施した。この結果、香港民主同盟などの民主派勢力が圧勝し、中国側にショックを与えた。
 一方、1992年7月、最後の香港総督クリストファー・パッテンChristopher Patten(1944― )が着任した。パッテンは10月の施政方針演説で、1995年に予定されている立法評議会選挙における直接選挙枠の拡大などを骨子とする民主化提案を行った。中国側はこれに強く反発し、中英共同宣言の破棄を示唆するなど態度を硬化させた。1993年4月から11月にかけて17回にわたって中英間で協議が行われたが合意に達せず、この間に中国は香港特別行政区準備委員会の予備工作委員会を成立させ、独自に返還準備にとりかかった。香港政庁側も1993年12月と1994年3月の2回に分けて選挙制度改革案を立法評議会に上程し、1994年6月末可決成立させた。この新制度に基づく立法評議会選挙が1995年9月に行われ、民主派が躍進した。中国はこの選挙結果は返還後は無効になると非難しつつ、円滑な返還作業を進めるためイギリスとの協調を図り、1995年10月中英外相会談で4項目の合意を成立させた。
 1996年1月公式の返還準備機関である香港特別行政区準備委員会が発足。同委員会の組織した推薦委員会は同年12月に親中派の実業家・董建華(とうけんか)を返還後の初代行政長官に選び、また60人の臨時立法会議員も選出した。中国はこのように返還手続きを進めながら、一方で香港の集会・結社の自由を定めた法律の改廃を決めるなど強圧的姿勢を示した。こうして1997年7月1日に返還が実現し「一国二制度(一国両制)」のもとで、香港は中国の特別行政区として高い自治と返還前の社会・経済制度の維持を保つことになった。しかし返還後も中央政府の指導による中国化が進められ、民主勢力からの批判を受けている。また株価の下落、通貨危機などの経済的不安もおこっている。
 いずれにせよ、19世紀半ば以来、イギリスにより支配されてきた香港が返還されたことにより、ヨーロッパのアジア植民地体勢が終焉(しゅうえん)の時をむかえたといえる。[渡邊幸秀]

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