日本大百科全書(ニッポニカ) 「馬良」の意味・わかりやすい解説
馬良(中国、三国蜀の武将)
ばりょう
(187―222)
中国、三国蜀(しょく)の武将。字(あざな)は季常(きじょう)。襄陽(じょうよう)郡宜城(ぎじょう)県(湖北(こほく)省宜城県)の人。兄弟5人は、いずれも才能に恵まれていたが、馬良がもっとも優れていたため、郷里は、「馬氏の五常、白眉(はくび)を最良とす」と称した。馬良は、眉に白い毛が生えていたのである。このことから、同類のなかでもっとも優れたもののことを「白眉」とよぶようになった。諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))と交友関係にあり、手紙のなかで亮を「尊兄(そんけい)」と称している。劉備(りゅうび)の入蜀の際には、荊州(けいしゅう)に残り、呉(ご)に使者となって孫権(そんけん)に高く評価された。劉備が即位すると侍中(じちゅう)になり、呉の征討に際して、五渓(ごけい)の蛮族(異民族)を味方につけたが、夷陵(いりょう)の敗戦の際に戦死した。弟は、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬(き)る」で有名な馬謖である。
[渡邉義浩]
『小出文彦監修『三国志人物事典』(1999・新紀元社)』
馬良(中国の教育家、政治家)
ばりょう / マーリヤン
(1840―1939)
中国の教育家、政治家。本名は馬建常。江蘇(こうそ/チヤンスー)省鎮江(ちんこう)の人。1852年上海(シャンハイ)の徐匯(じょわい)公学に入り、のち耶蘇(ヤソ)会初学院に入り、1871年には神学博士となる。家は代々天主教徒で、彼も数年伝道生活をした。1873年には徐匯公学校長となり、1903年には徐家匯に震旦学院を、1906年には呉淞(ウーソン)に復旦公学を創設した。一方、1875年に耶蘇会を退出すると、李鴻章(りこうしょう)の命を受けて洋務に従事し、朝鮮、米、英、仏、で活動したほか、日本では1881年(明治14)に神戸領事、1892年に長崎領事、ついで駐日公使館参与となり、1905年、清(しん)国留学生取締規則をめぐる反対運動に対処するために再来日した。1911年の辛亥(しんがい)革命後は南京(ナンキン)府尹などを務め、1913年には北京(ペキン)大学校長となり、1939年ベトナムのランソンで没した。
[深澤一幸]
『張若谷編著『馬相伯先生年譜』(1939・商務印書館)』