骨屋町(読み)ほねやちよう

日本歴史地名大系 「骨屋町」の解説

骨屋町
ほねやちよう

中京区六角通烏丸西入

東西に通る六角ろつかく(旧六角小路)を挟む両側町。

平安京条坊では、左京四条三坊四保九町南及び同一〇町北。

元亀二年(一五七一)上下京御膳方御月賄米寄帳(立入宗継文書)には牛寅組の中に「六角ほねや町」とあり、「年頭御拝礼参府濫觴之扣」(六角町文書)の天文六年(一五三七)六月一四日の記録では、将軍の祇園会上覧の費用永楽銭弐貫百文を艮組が負担している。また祇園会山鉾の浄妙山が明応九年(一五〇〇)には出ており、町も応仁の乱前後には成立していた。

宝暦一四年(一六三七)洛中絵図に「ほねや町」とあり以後変化はない。「京雀」(寛文五年刊)に「此町には扇のほねやおほし」とあって、室町末期以来の状況をとどめているが、「京雀跡追」(延宝六年刊)では「扇のほね師中比よりたへたり、今は大かた是も皆旅人の宿かす所右同じ、水引や有」とある。


骨屋町
ほねやちよう

[現在地名]堺市戎之えびすのひがし三丁

天神東片原てんじんひがしかたはら町の東にあり、絹屋町きぬやちよう筋を挟む両側町。町名の骨屋は扇の骨を作ったり売ったりする者のこと(日葡辞書)。慶長九年(一六〇四)豊臣秀頼法隆寺五重塔を修復したが、その時の須弥内札銘に「いづミノさかへ之内北之志やうほねや丁の孫一郎とう里やう仕候」とみえ、当町の棟梁孫一郎配下の大工が従事している。また江戸時代の堺北庄大工組の一つに骨屋町組があった(元禄八年堺手鑑)


骨屋町
ほねやちよう

下京区高辻通烏丸西入

東西に通る高辻たかつじ(旧高辻小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条三坊三保一一町南側及び同一二町北側。平安中期以降は高辻室町小路東の地。

文亀年中(一五〇一―〇四)、僧玉翁が当町北つら本覚ほんかく寺を再興したが、この寺は源実朝の夫人本覚尼の創建にかかり、八条遍照心へんしようしん院の域内にあって、真言律宗であった。貞応年間(一二二二―二四)に梅小路堀川に移り、後に荒廃


骨屋町
ほねやちよう

下京区六条通高倉東入

東西に通る六条通(旧六条大路)北面する片側町

平安京の条坊では左京七条四坊一保八町北の六条大路上にあたり、平安中期以降は六条高倉小路東の地。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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